caguirofie

哲学いろいろ

#57

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十七章e 神の国の歴史的な進展

はっきり言っておきたい。わたしは羊の門である。

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしはかれらを知っており かれらはわたしについて来る。(10:27)

わたしより前に来た者はみな 盗人であり 強盗である。
ヨハネ10:7−8)

と言われたところの《盗人》について 科学的に立証しておかなくてはならない。なぜ《イエスより前に来た者》をわれわれは《知らない つまり〔その虚偽を〕憎む つまりかれらに賛成しない》か。
ところで かれらユダヤ人が イエスを殺そうと計画したそのときの模様を ヨハネは 次のように記している。

〔マリアのところに来て イエスは行なったことを目撃したユダヤ人の多くは イエスを信じた。〕しかし 中には パリサイ派の人びとのもとへ行き イエスの行なったことを話す者もいた。そこで 祭司長たちとパリサイ派の人びとは最高法院を召集して言った。

この男は多くのしるしを行なっているが どうしようか。このままにしておけば 皆がかれを信じるようになるだろう。その上 ローマ人が来て われわれの聖所も国民も滅ぼしてしまうだろう。

かれらの中の一人で その年の大祭司であったカヤパが言った。

あなたたちは何もわかっていない。一人の人間が民に代わって死に 国民全体が滅びないで済むほうが あなたたちにとって好都合だと考えないのか。

これは カヤパが自分の思いつきで話したのではない。その年の大祭司として イエスが国民のために死ぬことを預言したのである。イエスが死ぬのは 国民のためばかりでなく 散らされている神の子たちを一つに集めるためでもある。この日から かれらはイエスを殺そうと計画した。
ヨハネ11:45−53)

これらの記述をもちろんヨハネは イエスが殺されたあと 書いたのである。つまりイエスが殺されるのを 弟子ペテロとともに放っておき そういう・つまり裏切り行為をするという意志の自由選択(もちろん あやまち)をおこなったあと 神の予知の中に入って これらを書いたのである。まづ このことが第一点。
ここで神の予知は 大祭司カヤパに次のことを語らせたと見るのは 神の国の人間的な歴史の進展に属する。

あなたたちは何もわかっていない。一人の人間が民に代わって死に 国民全体が滅びないで済むほうが あなたたちにとって好都合だと考えないのか。

この意味で カヤパらは イエスより前にやって来て 羊の囲いの中に入ったのである。
日本には いけにえの考え方はあっても 贖罪のための犠牲という考えはないと言われることがある。その当否はよくわからないが おそらく この《一人の人間が人びとに代わって死に 国あるいは組織が滅びないで済む》ように取り計らうというのは なじみ深いかどうかを別として じっさい行なわれている事実である。会社人間というようなことが問題となったり あるいはロッキード収賄事件で 関係者の一人が自殺したと報道されるような場合である。
エスは 木(十字架)に懸けられ のろわれる者となって 人びとの罪をあがなったのである。これが唯一の手段ではなかったであろうが これ以上ふさわしい神のみこころの告知の手段はないと考えられたのである。ところが この世の支配者は上のように この羊の門をとおらずに しかも同じやり方を行なった。つねにイエスより前にやって来た。そうすれば ミソギ(禊ぎ)・ハライ(祓い)が完成すると考えた。わたしたちは 会社がどのような悪いことをやったのか 田中角栄の行為が犯罪なのか どのような犯罪なのか 必ずしもつまびらかにしない。それは 人間の次元での相対的なおこないであるという大前提を無視するわけに行かないからである。

  • もちろん その前提での 法律に照らしての裁きは――第二審以降がどう出るかを別として―― おこなわれるし 有効である。

しかしながら そのような《一人が人びとに代わって死ぬ》という事件の処理の仕方 これがあったとしたなら これには 大いに疑問を持つ。つまりわれわれは そのかれらを《知らない》。と言いうる。これも もう一つの大前提なのである。
つまり 明らかに――このばあいは 経験事実に即して 科学的に立証される(つまり その犯罪性が立証されるかどうかを別に あの試行錯誤の過程において 光を曲げたという人間性について明らかに立証され)―― かれらは そのやり方において 《盗人》なのである。イエスを信じないからである。つまり たとえ日本の歴史において キリスト・イエスという人が伝えられていなかったとしても その日本人の史観の原理 これを信じないからである。われわれは《かれらの言うことを聞かなかった》とは 正当にも言われるべきであり 語られ出すべきである。
田中角栄は 大衆政治家と言われるように 多くの人びとによって 日本人の史観の原理(また 生活原理)を貴びよくわきまえて登場した人物だと語られるのを聞く。かれは あたかも次のように語らなかったであろうか。

わたしは門である。わたしを通って入る人は救われる。その人は 門を出たり入ったりして牧草を見つける。盗人が来るのは 盗んだり 屠ったり 滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは 羊が生命を受けるため しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく 自分の羊を持たない雇い人は 狼が来るのを見ると 羊を置き去りにして逃げてしまう。――狼は羊を襲い 追い散らす――。かれは雇い人なので 羊のことを気にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。・・・
ヨハネ10:9−14)

この言葉を語り また同じく

わたしは再び自分の命を受けるために それを捨てるが そのために 父(史観の原理)はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てるのだ。
ヨハネ10:17−18)

と語って のろわれた者となることによって 律法の慣性の法則の中でののろいから われわれを解放してくださったイエスを いま顕揚して述べることは ちょうどこのわたしが 田中角栄に代わって 権力の座につこうとして 自己の推薦状を書こうとしていることなのでしょうか。
じっさいそうですが――つまり 権力を或る悪しきもののように回避すべきか と問うとき すべきではないと答える限りで そうですが―― だれも 《わたしたちは おまえを知らない》と言われるために 政治家になろうという人はいず 同じく史観の原理たるイエスと等しい人格の人はこの世にいず しかも 共同自治の原理は キリスト史観に明示的に立たない場合でも 一人ひとりの自治の共同ではあっても 支配・被支配の共有ではないのだから 問題は そのイエスが復活して《聖霊を受けよ》と言って与えた聖霊を受けとることに 自治の第一法則があるのだから ここで(つまり歴史の現段階で) 共同自治の制度をあらたに変革することにある。
じっさい 田中角栄が 共同自治の原理を体得して現われたとみる多くの人びとがいるとするなら このとき 聖霊だとかの語を持ち出さずとも われわれは この生活原理をおのおのよくわきまえている。つまり 良い羊飼いは 聖霊(つまり 《現実》もしくは 愛の推進力 資本形成の原動力)として われわれ各自の身体に宿ったと考えられている。
このとき ある人たちはなぜ 権力を悪しきもののように 回避しようとするのか。あるいは この権力の制度(アマテラス‐スサノヲ連関体制)そのものを 古くからの生活原理にのっとって 新しいものへ変えようとしないのか。
わたしたちが 権力を回避せず 田中角栄に代わってその座につこうとしているのではないかという嫌疑に対して そのことを否定しないで いま生活原理の新しい展開を模索するのは まだ心のにぶい人たちのために 上のことを語るためである。だから 

わたしたちは理屈を打ち破り 神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ また わたしたちの従順(羊)が完全なものになるとき どんな不従順でも罰する用意ができています。
(コリント後書10:5−6)

そうしてもはや このパウロの言葉にさからってでも わたしたちは《人間的な動機にも関連して 戦》っていくのです。(この世の事柄は 相対性の世界にあり この世界では 見解の相違がやむを得ず 現われる。その戦いである。


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(つづく→2007-06-12 - caguirofie070612)