caguirofie

哲学いろいろ

モーセの青銅のへびとイエス

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
聖書記者ヨハネは モーセのことに触れて 次のように イエスの出現について解説しています。

   そして モーセが荒野で蛇を上げたように
  人の子(イエス)も上げられねばならない。
  それは信じる者が一人も滅びないで
  永遠の命を得るためである。
         (ヨハネ福音 3:14,16)

 モーセがさお(棹)の上にへびを上げて掲げた(民数記21:4−9)ように そしてその意味が人びとの死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似に注目した一つの見解です。



  
 まづ 民数記の記事のほうを掲げます。
 ▼ (民数記 21:4-9)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 民はホル山から進み 紅海の道をとおってエドムの地を回ろうとしたが 民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい つぶやいて言った。
  ――あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って
   荒野で死なせようとするのですか。
    ここには食物もなく 水もありません。
   わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。

 そこで主は 火のへびを民のうちに送られた。へびは民を噛んだので イスラエルの民のうち 多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った。

  ――わたしたちは主にむかい またあなたにむかい
   つぶやいて罪を犯しました。
   どうぞへびをわたしたちから取り去られるように
   主に祈ってください。

 モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた。

  ――火のへびを造って それをさおの上に掛けなさい。
   すべてのかまれた者が仰いで それを見るならば生きるであろう。

 モーセは青銅で一つのへびを造り それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ これについて解説したものがあります。《原罪》ないし《悪魔》が そのまま出て来るという嫌いがあります。

 ▲ (アウグスティヌスモーセの青銅のへびとイエス) ~~~~~~~~~~
 兄弟たち あなたがたは知っていよう。死がこの世に入ったのは悪魔の妬みによったのである。聖書は語る。

   神が死を造られたわけではなく
   命あるものの滅びを喜ばれたわけでもない。
   存在させるためにこそ神は万物をお造りになった。
          (知恵の書1:13−14) 

 そして同じ書でこう語られる。

   悪魔の妬みによって死がこの世に入った。(同上2:24)

 と。人間は悪魔によって差し出された死の飲物(* もしくは善と悪を知る木の実)へと力づくで赴かされることはない。
 悪魔は強制力ではなく 説得の狡猾さをもつものだからである。
 悪魔は あなたの同意なしには 何をもたらしもしなかった。

 おお人よ。
 あなたの同意が死へとあなたを追いやったのだ。
 われらは 一人の死すべき人から死すべき者として生まれた。
 不死なる者から死すべき者になった。
 アダムによって 人はすべて死すべき者となったのだ。
 だがイエスは 神の子であり 神の御言であり 
 このかたによってすべてのものは造られ
 ただ一人御父に等しいかたであったのに
 死すべき者になられた。

   言は肉となって わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音1:14)

 からである。
  だから イエスは死を引き受け 
 死を十字架に架け 
 死すべき者を死そのものから解放してくださる。
 そこで主は 
 父祖たちのもとで予表として行なわれたことを思い起こさせてこう語られる。

   そして モーセが荒野で蛇を上げたように 
  人の子(イエス)も上げられねばならない。
  それは信じる者が一人も滅びないで 
  永遠の命を得るためである。
           (ヨハネ3:14,16)

 と。ここには この箇所をかつて読んだ者なら知っている偉大な奥義がある。

 そこでわたしは この箇所を読んでいない者にも この箇所をかつて読んだり聞いたりしたが忘れてしまった者にも 次のことを聞いてもらおうと思うのだ。――

  かつてイスラエルの民は
 荒野にあって蛇の噛み傷によって倒れ
 多数の死者をもたらす殺戮が起こっていた(以下 民数記21:4−9に対応)。

  彼らを捕らえ鞭打って教育しようとする神の一撃が加えられたからである。
 そこには 将来の出来事の偉大なる奥義が示されている。

  そして主ご自身が この箇所で証言され 
 何人も 真理ご自身がご自身について語られるこのこと以外の解釈を
 できないような仕方で証言されている。

  すなわち主はモーセに対して 青銅の蛇を作り 
 それを砂漠で木に架けて高く掲げるように命じられた。
  そして 蛇に噛まれたなら木に掲げられた蛇を見上げるよう
 イスラエルの民に命じよ と仰せになった。
 このことは事実となり 人々は噛まれ 見上げ そしていやされたのである。
     (以上 民数記)。

 ・人々を噛む蛇とは何だろうか。
  ――それは 肉の死から来る罪である。

 ・上げられた蛇とは何だろうか。
  ――それは 主の十字架の死である。

 ・死は蛇から来るので 蛇の形によって
  主(イエス・キリスト)の死がかたどられた。

 ・蛇の噛み傷は死に至り
  主の死は命に至る。

 ・蛇が見つめられるとき 蛇の力は消え失せるのだ。


 これはどういうことだろう。

 ・死が見つめられるとき 死の力が失せる。

 ・だが誰の死だろうか。それは命なる方(イエス)の死である。

 ・こんな言い方が可能なら 命なるかたの死である。
  否むしろ この言い方は可能であるにしても 驚くべき言い方であろう。

 だが 主が行なおうとされたことをどうして語ってはならないことがあろう。
  主がわたしに代わって行なおうと定められたことを語るのに
 どうして躊躇する必要があろう。

 ・キリストは命そのものである。
  そのキリストが十字架に架けられたのだ。

 ・キリストは命そのものである。
  そのキリストが死んだのだ。

 しかし

 ・そのキリストの死によって 死は死んだ。

 ・死んだ命が死を葬り 命の充満が死を飲み尽くした。

 ・死はキリストの肉の中に呑み込まれてしまったのだ。

 かくして われらもまた 復活して語るであろう。
 今や勝利を得た者として歌うであろう。

   死よ お前の力はどこにあるか。
   死よ お前の棘はどこにあるのか。
   (コリント前書 15:54 )

 だが今や 兄弟たち 罪のいやしを受けるために
 わたしたちはひたすら
 十字架のキリストを見つめることにしよう。・・・
 (アウグスティヌスヨハネによる福音書講解説教 第十二説教 泉治典・水落健治訳)
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