caguirofie

哲学いろいろ

結婚とクリスチアニズム


ねむりねこ 2015/07/22 22:53

結婚の語源marriageの語源が気にかかり、ちょっと調べてみたのですが、


その過程で面白い記事を見つけました。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/marriage.html


キリスト教は、長い間、結婚には関与していなかったんですね。
へえ、そうなんだ、と驚いきました。

bragelone

☆☆【Q:情欲のない生殖とは どういうことか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8541345.html

 性欲はあっても それ自体のためにするという思わくや意志行為はない。

 その意味で 情欲から自由である。

 その境地における生殖行為。

 これは あるか?






 アウグスティヌスが あると言っているようです。

 ▼ (アウグスティヌス:身体より意志がわるい) 〜〜〜〜〜〜〜〜
 霊魂(* 広く精神)のすべてのわざわいが身体からくると考える人は誤謬を犯している。
 ・・・霊魂の重荷となる身体の腐朽は 最初に罪を犯した原因ではなく むしろそれの罰だからである。


 朽ちる肉が霊魂を罪あるものとしたのではなく かえって罪ある霊魂が肉を朽ちるものとしたのである。
  (『神の国』 泉治典訳 1981  §14・3)


 ▼ (情欲のない生殖) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 それゆえ もし罪がなかったならば 楽園の幸いにふさわしい結婚がなされ 愛せられる子を産み しかも恥ずべき欲情はなかったのである。


 それがどのように可能であったかを 現在の実例をもって示すことはできない。しかしそうだとしても 多くの肢体が現在 意志に仕えている事実を見れば 一つの肢体が欲情なしに意志に仕えたということを信じがたいことと思ってはならないのである。わたしたちは手足を欲するままに動かして その肢体のなすべき仕事をさせるが そこには何の抵抗もなく わたしたち自身においても他の人びとにおいても見られるとおり容易である。・・・
  (前掲書 § 14・23)


 ▼ (自然本性を避けるのではなく・・・) 〜〜〜〜〜
 それゆえ 今書いていることをみだらな気持ちで読む者は 自然本性を避けるのではなくて咎を避けるべきであり 議論に必要な言葉をとがめるのではなくて 自分たちの恥ずべき行為をとがめるべきである。・・・
  (同上)
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

投稿日時 - 2014-04-04 15:58:15

bragelone

【Q:フランツ・オーヴァーベックについて】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8142238.html
 その回答№3
 〔これは Diekbeck とか名乗っていた人の質問です。
 ねこさんも №1に参加しています。
 主題が 少し逸れていますが アウグスティヌスに『結婚の善』なる著書さえあることを言っていますし かかげます。]


 さて ( c )の論点は 《ケノーシス(自己無化)》という主題をめぐるものである。

 まづたとえばアウグスティヌスの著書に『結婚の善』があるように 《結婚は 善である》。

 
  ** なおこの点 次の論文を読むと アウグスティヌスは 《女性は 子を産むために存在する》と言っていると読めます。
   ■ 赤 阪 俊 一:教会法における結婚
   http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol8/human/04_akasaka.pdf


 問題は アウグスティヌスにとって 《情欲のない生殖》の実現ということのようです。
 つまり いきなり《自己無化》をめぐって 情欲の問題に特化したかたちですが 香川がオーファーベックの理論にかんしてマタイ福音 19:12 を挙げているかぎりで この特化した論点ですすめます。




 議論の構成のためにすでにかなりの分量を費やしましたが ここで 結論を提出します。

 問題は 《恩恵論》です。すべては――つまりひとのおこなう行為のすべては―― それの成就いかんについては 神のめぐみを得られるかどうかによるということ これです。


 たとえば 次の聖句に議論は尽きます。
 ◆ (ガラテヤ書 5章) 〜〜〜〜〜
 24: キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

 25: わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ☆ 善なる結婚において 情欲のない生殖を実現するのは 《めぐみによる すなわち 霊のみちびきに従って成就する》 これです。そのとき それとしてケノーシスも実現していることでしょう。


 同じ趣旨ですが かかげます:
 ◆ (ガラテヤ書 6章) 〜〜〜〜
 14: しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。
 この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

 15: 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
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 ケノーシス=自己無化と言っていても ニルワーナ(寂滅・寂静・やすらぎ)とは おそらく基本的な発想は違うであろうと考え 取り上げてみました。

bragelone

 【Q;「ペラギウス論争」とは結局?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5954717.html


 かんたんですが あとは 三人目のペラギウス主義者であるユリアヌスの議論があると思います。これは ご存じのように 情欲論です。いわゆるクリスチアニズム正統派は アウグスティヌスが『ユリアヌス駁論』で応じています。


 ▲ (金子晴勇:ユリアヌス駁論の解説) 〜〜〜〜〜
 主題となっている争点は アウグスティヌスの『結婚と情欲』をユリアヌスが徹底的に批判したことから 原罪と情欲の関係に移行している。
 そのさい結婚と性欲との関連に論争が向けられ 性欲を賛美するユリアヌスとそれを罪の担い手とみなすアウグスティヌスとの間に大論争が展開した。
 (アウグスティヌス著作集 30 ユリアヌス駁論 2002 p.514)
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ☆ この議論の内容は 要約しがたいように思います。わたしにはまだ出来ていません。
 基本的には 先に見た議論と同じ筋だと わたしには思えるのですが なかなかうまくまとめ得ずにいます。
 たとえば モーセの律法をこのわが身において実現することができるのは――アウグスティヌスにあっては―― 恩恵によって《自由にされた》自由意志によって初めて可能となる。情欲からの自由を得ることができるのも 同じようなのだというふうに言おうとしていると思うのですが 果たしてどうでしょう?

bragelone

▲ (アウグスティヌス:結婚の善)
 しかしながら 彼ら(《情の燃えるよりは結婚するほうが 善い》というパウロの言葉に従う人たち)にとって結婚は罪ではない。
 もし それが私通と比べて選ばれたんだとしたら 私通よりは罪が軽いが やはり罪であることになろう。だが 今や 使徒(=パウロ)が


   望み通りにするがよい。結婚しても 罪を犯すのではない。(コリント前書7:36) 


 そして 


   もしあなたがたが妻を迎えても 罪を犯すのではない。また おとめが結婚しても 罪を犯すのではない。(同上7:28)


 と きわめてはっきりと語っている言葉に対して われわれは何と言おうか。だから 結婚が罪ではないことをなお疑うのは確かに正しいことではない。

 (『結婚の善』 § 10 [11] 岡野昌雄訳)