caguirofie

哲学いろいろ

#56

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第三章 唯物質史観に対して キリスト史観は 質料〔を共同主観する〕史観である

第三節 唯物史観は キリスト史観のヘーゲル的な解釈への反措定である

それゆえ この可視的なものの質料は あの背反した天使たち(――後発もしくは後期のキャピタリスム共同主観ないしソシアリスム共同主観――)の指示に仕えるのだと思うべきではなく むしろ神の指示(――つまり万人――)に仕えるのだと考えなくてはならない。神が高き霊的な御座において変わらざる御方として判断したまう限り(――だから 新しい時代の新しい共同主観を担う人びとの生起とともに――) この権能は(――つまり共同主観を取り込む共同観念自治の主宰者の権能は――)〔第一原因としては これも〕神から与えられるのである。・・・
〔もう一度言いかえるなら 現実の質料関係を政治経済的に統治するのは 共同観念の主宰者つまりアマテラス者であるが このA者の権能も実は 共同主観の停滞する形態ないしその律法化形態を A語概念において共同観念とするというその行為に現われてのごとく 第一原因としては むしろ神の指示に(――つまり 現実究極にスサノヲ圏――)に仕えるのだと考えなくてはならない。この新しい命題を 質料史観として続いて考察しよう。〕
たしかに 物体的・可視的に生まれるすべてのものの隠れた或る種子(物質?――しかし 種子的理性 理性的種子)はこの世界の物体的な要素に潜在しているのだ。果実や生物から生じ 私たちの眼尓も既に見える種子と この種子の中の隠れた種子とは区別される。そこで 創造主なる神の命令によって 水は最初の魚と鳥を 大地は固有の最初の植物と固有の最初の動物を生んだ(創世記1:20−25)のである。・・・生まれることによって 私たちの眼に現われるものは みな隠れた種子から その成長のはじめを受け取り さらにその適当な大きさの増長と形の分化を いわばその始原の法則から受けとる。だから 私たちが両親を人間の創造主とは言わず また農夫たちを穀物の創造者とは言わないように――もちろん かれらの外的に加えられた運動に神の創造力が内的に働くのであるが―― 悪しき天使だけではなく善き天使(――自然科学の眼――)も たといかれらがその感覚と身体の繊細さによって 私たちにはより深く隠されているものの種子を知っていて また諸要素の適当な配合をとおしてその種子をひそかに散布し さらに事物を産出し その成長を促進すべき条件を備えていようとも 創造者であると考えるのは許されない。しかし神が命じたまう限りでなければ 善き天使もこれをなさず また神が正しく許したまう限りでなければ 悪しき天使も(これも 自然科学の眼である それも)これを不正になさないのである。
なぜなら よこしまな人の悪意はその不正なる意志を持つが しかしかれは正当に受けとるのでなければ 自分の罰のためであれ 他人の あるいは悪人の罰のためであれ ああるいは善人の賞讃のためであれ 権能を受け取らないからである。
(三位一体論3・8〔13〕)

ここに 共同主観夢は スサノヲ圏の意志といったかたちでの共同主観の問題ともなりうる。またそれは 殊に 原主観が祖国を思うといった座標を 原主観どうしの関係 また質料を介したその関係といった座標に変えて 史観が共同主観するとき 生起する問題である。
もし唯物史観が 《背反した天使たちに仕える》のではなく だからまた天使(思想・科学)の能力を欲するのではなく(主観を 思想・科学の知解行為〔能力〕という人間の部分的な領域にまったく同化させてしまうのではなく) 天使の存在をこそ欲し まづは何であれ第一原因の存在・その創造〔者 / 力〕性を見るものとするならば かれらは キリスト史観とおおきく同じ軌道の上を歩いている。かれらは 質料の或る隠れた種子つまり 《種子の種子》を捉えようとしているのである。
ここでまづ ただちに言っておくことができるのは 次の点である。
《種子の種子》たる第一原因に《創造主》の像を見ないことによって かれらは 〔科学の〕善き意志が この神の命じたまう限りでこそ発揮されるばかりではなく 悪しき意志も 神が正しくこれを許したまうのでなければ またそれをかれらが正当に受け取るのでなければ その権能(種子の発芽からそのともあれ開花まで)を持ち得ないということを捉え得ず あたかも 唯物史観ひとりが正しい・だから自由な史観であると言おうとするように 悪しき理性の悪しき種子は 歴史的に 《種子の種子(つまり かれらの場合 物質)》の発展に則して 人民裁判といった裁きを受け この世から排除されるというかのように 《楽園》の再獲得を主観し主張し愛そうとしている。これは このただ今の主観の放棄であり またそれは 第一原因に創造主たる神(むろん《理念》などではない)の意志を見ないことによって 必然的に みづからが天使の権能を欲することになった結果を表わしていると言うことができる。

  • ここで 神を持ち出して論じなければならないのは 唯物史観が 物質を持ち出したゆえであり これに沈黙しないためにほかならない。

そこで なおかつ この第一原因の観想は 次のようになされる。

諸原因の内奥・最高の軸から被造物を基礎づけ 支配すること――これを為しうるのはただ創造主なる神だけである〔と表現しなければならないときには 表現しなければならない〕――と 神によって配置された力と職務によって或る働きを外的に為し 造られているものをその時々ぞれぞれの状態で出現させることは別なことである。

  • 後者は 質料ないし身体もしくは人間を その権能を受けとって 為しもするのである。しかしヘーゲルの言うように 世界精神が現出・現象するのではない。後に触れるように それぞれ主観が 悪しき主観さえもが むしろこの土台なる神から離れてしまったようにして しかもそれなりに自己形成的に行なうのである。

たしかにそのように発生したものは根本質料の或る組織自体においてすでに根源的・萌芽的に創造されたのである。

  • このように 神を想定しないで 言える。ただ それは《創出されたのである》と捉えることは 人間〔の主観〕にとって 自己の同一に留まる知恵の愛にとって ゆるがせに出来ない史観の始原的な法則である。そうでなければ 人間〔の主観〕が 《根本質料》を発見したと言いつつ むしろこれを《創造した》ことになるだろう。また 誰も人間が 《神 / 創造主》を発明したのではない。人間の自己認識・自己形成において この語を持ち得たのである。この語――人間の言葉――を持って 主観形成するのである。そのとき 表現上 《神のために自己を愛す》と語るほうが 人間の生きた主観にとって 現実的であり有益なのである。わづかに これを共同主観としたいと欲する過程で 《宣教という愚かな手段》が採られた。しかし 信教の自由は 主観内の神を抹殺してしまったわけではない。宣教という愚かな手段によらずに 質料を介する社会的な史観の次元で 〔霊的な〕主観共同化を成しうる土壌を この信教の自由・基本的人権の尊重という倫理原則は 作ったと言いうる。

しかしそれらはふさわしい時を得てはじめて現出する。母が若い生命を身ごもっているように この世界は生まれるものの原因を身ごもっている。この生まれるものは 生起せず 消滅せず 始めもなく 存在の中止もない あの最高の本質に依拠しないなら 世界の中で造られない。

  • それは むしろ人間にとってそう見るべきであるということを語っている。なぜなら この《最高の本質》の似像が 人間であるからである。だから この最高の本質・第一原因・種子の種子・土台・御言葉(万物は この御言葉によって造られた)は そのもの自体が可視的なものへ現出するという意味での世界精神であるとか理念であるとかではなく――御言葉は 肉に造られ現出したが それは《造られた》と言うからには その元の御言葉(神の貌)より小さい〔人間という〕存在である。この人間が 神を指し示したのである。しかもこの神の背面なる人間を模範としないでは 理念(イデー)は 主観形成を何ら行なわないのである―― また 神格ないし人格を全く伴なわない《根本質料》=物質であるとも考えられない。人格とここで言うのは――唯物史観と或る意味で同様に―― 人間が史観であり その告知者であるからであり 神格と言う理由は 神は不可視的であるのだから 何か超人といったことを思い為さないためである。
  • この《物質》と《理念》とは 同じく主観の非形成という点で つまり 主観形成と第一義的には無縁であるという点で 同趣旨である。
  • 次に見るように 史観はすべて 人間の主観の中にあって これを離れては 論じることもできないし また論じてはならないとさえ言うことができる。

自然的なものではないが しかも自然によって用いられる外的に生起する諸原因(事象)を 自然の隠れて懐の中に隠され保持されているものが突如 出現し そして 《万物を量と数と重さによって秩序づけたまうた》(知恵の書 11:21)お方からひそかに受けとった自分の量と数と重さを展開することによって いわば外側で造られるため 用いることは たんに悪しき天使だけではなく 悪しき人間も為し得るのである。だから 質料関係に対する主観 共同主観としての質料史観は 史観そのものの中で・または史観そのものとして これを人間が為すべき時間=歴史の過程となして むしろ推移すると言ったほうがよく それ以外のかたち・方法で 主観されるべきではない。悪しき理性も 理性的動物ないし存在として善であり かれらも 広く共同主観つまりキリスト史観に参画すると言われなければならない。またかれらは 正当にも燃え盛る炉に投げ込まれ 鎖につながれるのであるが それは基本的に 霊的な領域において為されるのである。それは 敬虔な共同主観者が 火の試練において のちにすくわれて堅固にされるべく ためされているその自己形成の過程でしかない。
《あのお方から受けとった自分の量と数と重さ(主観)を展開する》ことは 善き天使たちも悪しき天使たちともども 悪しき人間とともに キリストの栄光すなわち人間の栄光を(その栄光として S圏の意志が考えられると思われる)証しするために――しかしそれは 時間的・有限にして いま浄福そのものではない―― それぞれの史観として 推移してゆくのである。そこに 第一原因の観想が のぞみ見られ これをもって共同主観とするのである。しかし この主観共同は 身体を一つとするような観念共同であるのではなく 独立主観の共同であるからには あたかも試練の火がそれぞれに違ったかたちで与えられ現われるように そのペルソナが異なり《自己の量と数と重さ》が異なるそれぞれの巡礼の旅路(史観)を歩むのであることは言うまでもない。
だからまた ここでも スサノヲ圏といったヤシロ・エクレシアの意志といったことが 考えられると思われたのである。このような意味で キリスト史観は 共同主観原理においていわば不変であり あくまで主観の共同であるかぎり いわゆる宗教(観念共同)になってしまうかのごとくのアヘンとは成り得ないのである。これらは 史観が 物質とか理念とかから導かれ形成される場合に対する批判として 述べたものである。

だから 

はじめに 〈御言葉>があった。御言葉は神とともにいた。御言葉は神であった。この方は はじめに神とともにいた。神はこの方によって万物を造った。造られたもので この方によらないで造られたものは何一つなかった。この方の内に生命があった。この生命は人間を照らす光であった。この光は暗闇の中で輝いている。しかし 暗闇はこの光を理解しなかった。・・・
御言葉はこの世にいた。・・・この方は 自分の民のところへ来たが その民はこの方を受け入れなかった。しかし この方は 自分を受け入れた人 その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。こういう人びとは 血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志にもよらず 神によって生まれたのである。・・・
ヨハネによる福音1:1−13)

と種子の種子・第一原因・模範主観・土台が 観想されて伝えられた。誰もこれを 宗教に替えて信ぜよと言われていないし 言ってはならないし また使徒の宣教も ほんとうには そうであったとも考えられない。変な言葉遣いをすれば 勝手に 史観形成しろと言うのである。
(つづく→2007-07-11 - caguirofie070711)