caguirofie

哲学いろいろ

#56

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十七章d 神の国の歴史的な進展

キリストは わたしたちのためにのろわれた者となって わたしたちを律法ののろいからあがない出してくださった。――《木に懸けられた者は皆のろわれている》(申命記1:23)と聖書に書いてあるのです。
(ガラテア書3:13)

キリストは 神の身分でありながら 神と等しい者であることに固執しようと思わず かえって自分自身を無にして しもべの身分になり 人間と同じ者になられた。人間の一人として人びとの目に映り へりくだって 死に至るまで それも十字架の死に至るまで従順でした。
(ピリピ書2:6−8)

あなたはかれ(キリスト)を天使たちよりも わづかの間 低い者とされた。・・・
詩編8:5 ヘブル書2:7)

しかし 聖霊はこのことを為さなかった。
神つまり父と子と聖霊との三位一体なる原理 その予知つまり原理の人間による受容は 受容というほどに(神との関係というほどに) その三位一体という原理の存在について思うこと それが 《然り 然り 否 否》の世界を表わしていると思われる。
言いかえると 父も子も愛であるが――愛の推進力であるが―― 聖霊が固有の意味で愛と呼ばれ 子は 父から生まれたのであるのに対して 聖霊は 父〔と子〕から発出されるということにかんして その違いを思うこととが 《然り 然り 否 否》の世界つまり 神の予知をみとめることに通じているのだと思う。
同じことで言いかえると キリスト・イエスは 神の貌としては ご自身が 聖霊を派遣したまうが しもべの貌としては のろわれた者となって人間として生まれ人間としての死を死なれたということ。
つまり 人間は 勝手に(自由に) 宇宙の原理を 知ろうとすることができるし また実際 それにつくことができる。しかも このことは 宇宙の原理そのもの(神の予知)に由来するとみとめなければならない。人間キリスト・イエスは このことを告知し また身をもって 内なる人の秘蹟と外なる人の模範を――たとえば 回転の歴史・さらには復活と その過程における動態的な自由を――しめしてくださった。聖霊は これを為さなかった。しかも 聖霊が 神から来て神である真理の霊――愛 弁護者――であるとわれわれは みとめるのである。これら父と子と聖霊とは 創られずして創る本性である父なる原理と 等しいとみとめるのである。個は各個t 個は全体と 全体は各個と等しい一つなる本質であると告白する。
キリスト・イエスは 復活して 弟子たちつまり人間に 《聖霊を受けよ》と言われたのであって 受ける・受けないの意志の自由選択(人間の科学的知識の獲得の自由)をも告知した。だから この自由な科学とその活用を 人間的な次元であやまって人びとは受け取ることのないようにと 《聖霊を受けよ》という神の予知の認識(ないしそのままの受容)を留保なさった。
これを人間的な論法で言えば こうである。人間は モノ・コトあるいは自己を知ろうとする。自己の記憶に尋ね これらを知解しようとする。この知識を 生活に活用する。つまり最後のは 知識を思う・愛することである。《知解》は あたかも《記憶》なる父から生まれた子のごとくである。あるいは 記憶と知解とは そこに相互のやり取りがあるとは言え あたかも同一の実体であるかのようである。或る一個の知識のどこまでが記憶でどこまでは知解であるか 言うことが出来ないかのようである。
ところが 第三の《意志・愛》の行為(その能力も)は ちがう。《意志》は それら知識を活用する人の欲求・理性的欲求として 記憶と知解のあとに生起するようであるが そしてそのときにも どの知識を求め 求め得た知識をどのように活用するかの自由選択が認められるということ然ることながら 《知解》しようという欲求それじたいは ひるがえって もともと記憶や知解の前にわれわれがはたらかせていたものなのである。このあたかも最初の欲求たる《意志》は それを意識したものであれそうでないものであれ ちょうどその《最初》のもう一つ《はじめ(原理)》が存在して それを推進したかのようなのであるこれは ひろく神の予知と言わざるをえない領域のことがらに属す。神を立てるかどうかが問題なのではない。神の予知と言って表現するその意味を われわれは認める・受け容れざるを得ないということなのである。
人間的な水準での意志と記憶と知解とが 嘘を言わないというのは うそである。あやまたないというのは うそである。むしろ それらの試行錯誤が 人間の実態なのであり しかも そこで あやまつならば我れありと人間は じっさい 言っている。ここに見られる人間の本質(存在)のあたかも一貫性は 神の予知の次元で支えられているかのようなのである。
いや そのような神の予知とおまえが言っている本質的な領域も 人間の本質に属するときみは言うことができる。ただ やはりそのような試行錯誤の過程において 旧い誤りを去って新しい真につくという人間の意志の自由選択は まづ愛の行為なのであり――つまり たしかにただしい知解行為にもとづいているものであり もとづいていなければならないが なおかつ このただしい知解にもとづき それに従うのは 愛(意志)であり―― このとき ただしい知識をつたえる・おしえるということを これをみとめる・受け容れ〔させ〕るということとは 別である。
これは したがって 人間の意志の自由選択をみとめるということは それじたいにおいて ある原理的な力をはたらきとしてのような神の予知の領域をみとめたことになる というよりも それをみとめてでなければ 知識の新生をいうことも生起しないと考えるのである。
つまり言いかえると 父なる原理から生まれた子なる知恵と 父〔と子〕から発出する愛――人間にとってはまた 弁護者――なる聖霊とは ペルソナ(仮面なる実体?)として別である。そうして 子なるキリストが 父がそうされるのを見て 《聖霊を受けなさい》と語るのは これら三つのペルソナは 同じ一つの真なる神であるとわれわれは告白する。すなわち 聖霊は 神から来て神である真理の霊であると告白しなければならない。
言いかえると少なくとも 人間において 知解と愛(意志)とは 別である。信仰が――つまり人間の知解は 部分的また可変的であるから 全体的な真理への信仰が 人間の本質にふさわしいのだが その信仰が――と言わないとしても したがって 知解(科学)がというならこの知解は 愛をとおしてはたらくのであって 決して愛は知解に従属してしまうわけではない。愛は知解にもとづいているから その限りで従属しているのだが 旧い〔慣性の法則で残ってはたらく〕知解に服従してしまうのでもない。
慣性の法則(習慣)によってはたらく旧い知解を突き破るのは 愛の力である。そしてこの愛は ただしい真実な知解にもとづくのである。

このとき 人間の記憶と知解と愛(これれは それらなりに 三一性を形成している)の全体に対して 原理・真理・聖霊なる愛がはたらくとわれわれはみとめる。このほうが 人間を 本質(存在)として全体的に とらえて表現しうるというのである。これが 科学である。ただ この人間の科学は 自然科学のようにモノの次元で実験して見せることは出来ない。いや 実験は出来る。がそれを 科学的な資料集積として 実証することは出来ず 各自 心の眼でこれを判断するのである。真理に属く 聖霊を受け取るというのは 人間的な行為として 実験でないことはない。ただしわれわれがそう言うのは 心の鈍い人たちに対して 譲歩して言うのである。
しかしこのことも ただ人間の真実にしか過ぎず その意志の自由選択の一結果にすぎず このように表現された知を受け容れよと強制することは出来ない相談であり また 強制によらないとしても これを知として持つことにも 何ら意義はない。だから 実験というのである。キリスト・イエスの先駆者である洗礼者ヨハネは 《悔いあらためよ》という表現で この実験ということを示した。弟子のほうのヨハネが語ってつたえるには イエスはこう言ったのである。

はっきり言っておきたい。羊の囲いに入るのに 門を通らないでほかの所(科学的知識・道徳的規範 いづれも律法のような)を乗り越えて来る者は 盗人であり 強盗である。門(愛)から入って来る人が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き 羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

  • 《造られたもので このかたによらないで造られたものは何一つなかった》(1:3)。

自分の羊をすべて連れ出すと 先頭に立って行く。羊はその声を知っているので あとについて行く。しかし ほかの者のあとには 決してついて行かない。むしろ逃げてしまう。その声を知らないからである。
ヨハネ10:1−6)

《ほかの者の声を知らない》というのは その声が何を言っているのかを知らないのではなく 《賛成しない》ということである。つまり 《憎む》=《その虚偽を見分けてこれを内的に棄てる》。これは 慣性の世界から見ると わけのわからない新しい事態であるから つまり 部分的な科学の知識として指し示すことの出来ない全的な事態であるから 人間の行為として 実験だと言うのである。慣性の世界を 慣性の世界として 科学的に指し示した一般相対性理論は なお部分から知る原理の部分であるから 科学的に実験するもしくは実証することができる。
しかし 科学的知識が やがてあらゆる部分を知って全体的に原理を明らかにして初めて 人間は この知識を活用し愛しまた互いに愛しあうことが出来るというのは 必ずしも人間の本質を明らかに語っているとは思えない。そのように語るただいま現在の人間の欲求つまり愛が じっさいにはその人にはたらいている。これは神の予知の領域に属する(敵対的にも)とわれわれは いま 告白するのである。なぜなら すでに《羊飼い》は出現したのであるから。
もちろん 縄文人のあいだにも この原理は はたらいた。そして弥生人の社会でも 同じく《羊飼い》の声を聞いて 歴史知性を形づくりこれを活用した人びとがいる。その原理が イエス・キリストとして 歴史したと捉える。この羊飼いの声について行った人びとの歴史は――たとえイエス・キリストの名が伝えられていなかった時代と所においても―― 歴史のこのかた つまり神の国・光の子らとして 一貫した現実であった。この人びとの国が 歴史的に進展するとわれわれは 語る。これは 内的に語るのであって そのような愛の推進力ないし社会資本の原動力でしかなく 宗教として共同化されようと科学的知識として共有されようと そのような外的な側面とは いっさい無縁である。しかも実験というからには むしろ外的にはたらき 外的に歴史の場で(それをとおして)進展して行くと考えなければならない。
それは 呪術的な自給自足生活から交換経済社会への移行 そして この後者の資本主義社会化(その道徳的規範――自由・平等・友愛――の法律的実証といった社会主義社会を含めよ)の中で つまり現在そのような一段階として 新たな進展を形成しようとしている。言いかえると 待ち望んでいた歴史が 宗教の揚棄や科学知識の発達とともに 実現しようとしているというのが わたしたちの観想である。
この神の予知の観想は しかし 人間の意志の自由選択を同時にみとめることによって 実現へ向かうということでなければならないというのが われわれのささやかな主張である。両方をみとめなければならない。


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(つづく→2007-06-11 - caguirofie070611)