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もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416
第十五章a 神学と 歴史ないし社会力学
創世記のはじめの文章をとおしてのアウグスティヌスの社会的な量子力学は 次のように展開されます。――わたしの書物は《歴史――日本人の――》と題したのだけれども 必ずしもその隠れたところで点検し明るみに出すという作業をもはや 一つひとつ具体的な時代の考察に分け入って行かないことにしたいと考えました。なお方法論(生活原理)の探究に 時間を費やそうと思うのです。わたしの務めは そこにあるかも知れないと思うからです。
《天》(――時に《原始の光》――)と 見られず整わない《地》(――同じく《原始の粒子》――)と 淵をおおう《闇》(――まだ高密度・高エネルギーの状態であった――)の名が挙げられたのち初めて聖書(創世記)に あなたの(――つまりアウグスティヌスは原理である神に対して告白 confiteri / 神を賛美 confiteri している――)《霊》の名があげられるのはいかなる理由によるのであるか。
その霊(神の第三のペルソナ)は 《あるものの上にただよっていた》という仕方で暗示されねばならなかったからでしょうか。そのように語られるためには まづもって 《その上に》あなたの霊がただよっていたと解される《そのもの》の名があげられなければなりません。
- われわれは このその上に霊がただよっていたという《そのもの》に 《大爆発》直後の高密度・高エネルギーの混沌ないし 《相転移》のあとの《水》を仮りにあてはめた。
しかしそれは 《父》(――すなわち 創られずして創る本性 としてのビッグ・バンの原因――)の上にただよっていたのではなく 《子》の(――つまり 父の言葉・知恵・計画・力の――)上にただよっていたのでもありません。にもかかわらずその上をただようものがないならば 《の上にただよう》とは正当の意味でいわない。
(アウグスティヌス:告白13:6)
かくして 神学――それは 信仰の報酬として与えられる観想である――は 科学が知る経験事象の背後の原理そのものについて思うゆえ そしてまたこの思いは 人間としておよびその現在の地点から なすものであるから アウグスティヌスは 次のような量子力学の基礎理論をもつ。
いまや ここ(上の引用文)を出発点として できる者はその知力をもって あなたの使徒に従うがよい。使徒(パウロ)は言う。
あなたの愛は われわれに与えられた聖霊をとおして私たちの心にそそがれた。
(ローマ書5:5)また 霊的なものについて教えて 《すべてにまさる愛の道》を示し(コリント前書12:31) われわれのためあなたの前にひざまづいて 《すべてにまさるキリストの愛の知》を得ることができるようにと祈っている(エペソ書3:14 / 19)。
(告白13・7)
このようにアウグスティヌスは 時に強引にと見えるほど すでに宇宙の最初のビッグ・バンの状態の中に その上に 愛の力が(つまり たとえば人間にとっては 資本推進力――それは めぐみとまことに満ちていると言われる――)すなわち父また子にもほかならない原理の霊がただよっていたのだと それとして 知解をすすめていく。
それゆえ聖霊は そもそもの始めから すべてにまさるもの つまりすべての上なるものとして 水の上にただよっていたのです〔と〕。
〔したがって これをただちに 社会的な量子力学に読み替え〕 しかし私は だれにむかって語ったらよいでしょう。どのように語ったらよいでしょう。切りたった淵の中に落ちこんでゆく情欲の重さと そこからひきあげてくださる聖霊による愛のはたらきについて。
(引用枠を超えて次につづきます。)
この書の訳者・山田晶は ここを次のように註解している。
《愛 caritas 》と《情欲 cupiditas 》とは 相い反する方向にむかう心の《重さ pondus 》である。前者は何ものにもまさって神を愛する方向に。
- つまり このとき神は 自然・宇宙の原理なのであるから それは アジア人の自然観とその世界観と別のものではないと言いうるであろう。表現として《自然であることが 神を愛する愛によっている》などのごとく。
後者は何ものにもまさって自己を愛する方向に。
- ちなみに前者のばあいも 自己を愛するのであるが 心の重さとはそれを含むのであるが 後者が自己を愛するというのは 自己が始原・原理となってということである。後者は 考えものである。
(世界の名著 16 アウグスティヌス (中公バックス)13・7 山田晶 註解)
アウグスティヌスの議論のつづきです。
もちろんこの場合 空間的な意味で沈んだり浮かびあがったりするわけではありません。これ以上よく似たたとえもないとともに これ以上似ないたとえもありません。
ここで問題とされているのは 心情のこと 愛のことです。
- すなわち 物理学の宇宙創成論にかんして 《聖霊が〈水〉の上をただよっていた。そもそもの初めからただよっていた》という社会力学の観点を入れるならば この宇宙の生成じたいについても このような人間の科学は及ぶと考えられる。
私たちの汚れた霊は 世俗的関心への愛着によって下方に流れ落ちてゆきますが あなたの聖なる愛は世俗的関心を離脱した確実な愛によって
- だから 疑いの歴史知性も 離脱=出世間しているとわれわれは言った。
私たちを上方にひきあげます。それは あなたをめざし心を高くあげるためです。
- 時に 疑いの曲がり来る光の愛は 真理を先取りしこれを利用して 交換経済社会の 上方に立って 世俗的な利害を享受する。
その高きところであるあなたの霊は 《水の上にただよっている》。そのようにして魂が《実体のない水》をのりこえたとき 私たちは すべてにまさる安息に到着することができるでしょう。
《実体のない水》(詩編123:5)とは ヴルガタ訳では《たえがたき水》 現行の聖書では《さかまく水》。それは《罪の水》だという。
(山田晶注)(告白13・7)
そこで 原理の三位一体が問題である。アウグスティヌスの量子力学は 次のように。第十三巻九章を全文 引用しようと思えば。
では 御父と御子とは水の上にただよっていなかったのでしょうか。
- 何故なら非常な形而上学として言うならば すでにこの創世記の時代のあと 新約聖書を通過して来ているわれわれにとっては(つまり もちろんアウグスティヌスも その点 同じである) 《子は人間となったが 聖霊は人間となっては派遣されなかった》のだから ただ《聖霊が水の上をただよっていた》だけでは かれがわれわれの内に宿るかどうか 分からない。言わばそれだけのときには この《ただよう聖霊》は 蚕にとっての繭のごときものとして人間のためにあって 人間は 蛹のようであることになる。
疑いの知性アマテラス族は 自分たち以外の者は 蛹でいいんだよと言って みづから 国の家という繭を紡いだのではないだろうか。かれらは 自分たち自身 たとい小部分であっても原理に触れ得て 蛹は羽化して蚕蛾となり 繭を破り出てゆくものであることを知っていた。これを先取ったのではないだろうか。
わたしたちが聖霊の住まう神殿であることが 御子キリスト・イエスによって明らかとされなければならなかった。こういう国家の問題としてである。結論の一つを先走って言うとすると 次の議論でアウグスティヌスは わたしたちが国家という繭の中でアマテラス族に取って代わろうというのではなく 蛹なるわたしたち自身が羽化し 蚕蛾となって むしろ自分たちの頭の中にある疑いのアマテラス知性という繭を付突き破ることが 先決問題であると――原理的に先決であると――捉え そのような先決の井戸端会議の連帯によって 国家の時代のゆたかになった交換経済社会なる絹の織物を 国家形態を再編成しつつ 活用していくことができる。その神学は 次である。
もしもこの《ただよう》ということを あたかも物体のように場所的意味にとるならば 聖霊もただよっていたとはいえません。これに反し もしも神の不変の卓越性がすべての可変的なものの上にただよって板と言う意味にとるならば 水の上にただよっていたのは 御父と御子と聖霊でした。
ではなぜこのことは あなたの霊についてのみいわれたのでしょうか。なぜ聖霊についてのみ 場所ではないのに 場所であるかのように 《どこにあったか》ということが論じられているのでしょうか。ただ聖霊についてのみ あなたの《賜物》といわれています(使徒行伝2:38)。私たちはあなたの賜物《において》憩い そこ《において》あなたを味わいます。私たちの安らうところ それこそは私たちの場所です。
そこへひきあげてゆくのは 愛です。あなたの善き霊は 私たちの賎しいさまをみそなわし 死の門から救いだし高めてくださいます。私たちの平和は《善き意志》のうちにあります。
物体は自分の重さによって 自分の場所におもむこうとします。重さはかならずしも常に下にむかうとはかぎりません。いつも自分のあるべき場所にむかうのです。火は上にむかい 石は下にむかう。それぞれの重さによって動かされ それぞれの場所をもとめます。水の下にそそがれた油は水の上に浮かびあがり 油の上にそそがれた水は油の下に沈む。それぞれの重さによって動かされ それぞれの場所をもとめるのです。定められた場所にないかぎり 不安です。定められた場所におかれると 落ち着きます。
私の重さは私の愛です。私は愛によってどこにでも 愛がはこぶところにはこばれてゆきます。あなたの賜物によって火をつけられ 上にはこばれてゆきます。燃えあがり昇ってゆくのです。私たちの昇るのは心の上昇です。昇りながら階(きざはし)の歌をうたいます。あなたの火によって あなたの善き火によって燃えあがり 昇ってゆきます。イエルサレムの平和(――八雲立つ出雲八重垣――)をめざして高く昇ってゆくのです。じっさい私は 《主の家におもむかん(八重垣作るその八重垣を)》と呼びかける人びとの声を聞くとき よろこびを感じます。いつかそこに私たちを 《善き意志》がおいてくださるでしょう。そのとき私たちは そこに永遠にとどまること以外にはもう何ものぞまなくなるでしょう。
(告白13・9)
このようなおとぎ話をわれわれは 数多く語る。科学( science )はこれ(=科学)を学問( discipline )において用いなければならないと考えるから。次のような いささかの絶句調をわたしたちは好みませんが それは上の過程をよく表わしている。
いまのところ雲の《謎》につつまれ 天の《鏡》をとおしてあらわれているものは あるがままのすがたをあらわしていません。私たちはすでに御子に愛されてはいるものの 終わりの日にどのようなものにされるであろうかということは まだあらわになっていないのです。
- 宇宙は膨張をつづけているとしたなら あるいは 時に収縮を始め ふたたびのビッグ・バンに至り もう一度 宇宙創成を始めるとしたなら 終わりの日が考えられる(鈴木真彦・釜江常好:素粒子の世界 8章)。創成のはじめをいま観想するなら――それは殊に 現在の社会力学にとっておしえるところがあると思われる なら―― その終りの日をも今現在のために 観想することは 無益ではない。
御子は肉の網目をとおして私たちをみそなわし 愛撫し 愛の火をつけられましたから われわれは御子のよい香りをしたって駆けます。
- まるで 香りの量子数というように 素粒子の運動であるかのように。
しかし御子のまことのすがたがあらわれるとき 私たちは御子に似た者となるでしょう。
- 宇宙・世界・自然の原理を 顔と顔を合わせて見るのであるから 真理を知ることは人を自由にする。まるで 宇宙の力がおのおの人間となって 往来を歩いているみたいだ。
そのとき御子を あるがままに見るでしょうから。主よ 御子をあるがままに見ることが そのときできるでしょう。いまはしかし それはまだ自分たちのものとなっていないのです。
(告白13・15)
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(つづく→2007-05-30 - caguirofie070530)