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哲学いろいろ

公理のもんだい

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie



 結婚は両性の合意にもとづき成立するとうたうのは わが憲法です。

 なぜでしょう?

 けっきょくのところ ひとの生まれつき持ち合わせている自由意志にもとづくということではないでしょうか。
 
 自己表現としての思惟や行為は その人の自由意志の意志行為としておこなわれる。という基礎的な命題が持たれているものと考えられます。

 すなわち この自由意志の原則は 証明のむつかしい命題であり しかもそのまま〔広義の〕公理としてみとめられている。ものと思われます。

 


 すなわちさらに話は それはどうなっているのかと問うならば おそらく《自由》という概念にまで行き着くはずです。

 では 《自由》は――端折った議論としては―― 人間の知性の行為ないしその成果としての科学によって保証されているのか? それとも ここでの話として 神によって担保されているのか? という議論になります。

 ですが すでに答えの一端は 出ていました。証明のしがたい基礎的な判断を公理として用いていると。

 とすれば いまの問いを言いかえれば 《そもそも世界の根拠は どこにどのようして あるか? それをわれわれ人間が知りうるか?》となるのではないでしょうか。


 分かっていることは:
 われわれは 経験合理性をどこまでも当てはめ追究する科学にのみ拠っているのではなく それに全面的に拠ることもない。

 あるいは 仮りにもし神によっていると答えたとすれば その根拠が《いかに作用しているのか》は 神ならぬわれらにはついぞ分からないのであり そのまま中断せざるを得ない。

 この二点が挙げられます。


 

 出口は あります。考えつきます。

 《意志選択ないし意志行為の自由》なる公理は さらにすすめて《無根拠にもとづく》と想定する。こうすれば よいようです。

 無根拠にもどつくときわれわれは その中で科学行為にも それとして・しかるべく もとづくことが出来る。そのとき決して感性を排除してはいないでしょう。


 

 ちなみにこの無根拠とは 神のことです。無根拠ですから 無担保・無保証です。

 主観の内にのみかかわっているようです。おのおののです。十把一絡げの主観はあり得ませんから。

 《無根拠とわれとの関係》なる非思考の庭をもったワタシは その無根拠にもとづき アナタと社会的な交通において 《自由に》まじわります。婚姻の自由も両性の平等も 権利も義務も 契約も黙契もみなみな ここから出ているようです。


 これがわれわれ人間が生きる社会であり世界です。
 この世界観は《ただしい》か? ただしいかどうかより それが ほかのどんな概念思考(つまり物言いや苦情や宗教のオシエなどなど)にも――時間的にではなく考え方の上で――先行しているということが 大事なはずです。

 それでは その無根拠なる神が 間違っていたらどうするか? さらに奥にまします無根拠の神にたずねましょう。


 宗教は ただのオシエであり 群れているだけであり 肩こりのひどいガミガミ屋さんです。
 言ってみれば 信仰(すなわち ヒトにとって普遍的な・わが心なる非思考の庭――そしてそれは 生きた動態――)なる蝉の抜け殻でしかありません。