自由 平等 ゆづり愛――パックス・ヤポニカはお気に召しますか?――
1. 平等と言えば 自由です。平等論に まづ 自由論が来ます。
2. ひとはみな自由意志にもとづく意志行為の自由を持つ。(そう想定される)。この自由が 誰もにひとしくある。――これが 人間の平等です。
3. 自由が 想定であり でありながらそこから出る平等は もう証明の要らない公理と見なされます。
4. 世の中は そのみなもとが善か悪かと問うとき その答えは:
① 善神と悪神との両立は あり得ません。相い対立するふたつのものが 絶対性にはあり得ないからです。
② 悪神が みなもとであり 善神はそれに従属する。――これも ふさわしくありません。なぜなら 善神が従属するなら 世の中にいわゆる善は 悪のもとでのみ起こり得るに過ぎない。つまり それは悪です。悪から来ています。
③ 善神が 絶対性であり みなもとである。――と想定せざるを得ません。
④ ひとも この神(または 無)のもとで 善として――相対的な善なる存在として――生まれてくる。
⑤ この有限の善が ふと寄り道をしたり曲がったり 果ては善神にさからってやろうと思ったりして 悪が起きる。有限・相対性ゆえ そのものは 変質しうる。
⑥ すなわち 悪とは 存在としての善の一部が 善意でありつつ(=知らず知らずのうちに)道草を喰ったりしているときにその道から逸れてやろうと思う意志行為によって 損なわれることである。
⑦ 善の傷が――善を傷つけることが―― 悪である。
⑧ 自由意志の自由度が 道をまっすぐあゆむ善だけではなく そこから脱線する善の欠け(つまり 悪)にまでおよぶのである。
5. と考えるのと同じように 世の中は もともと人どうしが平等かまたは差別状態にあるかと問うとき 答えは:
① 不平等という基礎の上に 何とか互いに一部でも平等となるようにはからう――という世界観では 不自然だ。
② なぜなら それだとすべて――世の中 根が悪であり善も悪から来ているといった場合と同じように―― 不平等のいろんな衣替えでしかなくなるから。
③ では みなもとが 平等であるのか? これは ひとそれぞれに平等の素が埋め込まれていると見るわけだが そう見るよりは ひとの内の何が平等なのかを考えるのがよい。
④ むろん基本は 存在が平等であるのだが それだと〔ふたたび〕そう想定したに過ぎない。
⑤ したがって―― 一案としてといった程度でだが―― 自由意志の自由が ひとそれぞれに ひとしい。と見ることによる。
⑥ それによって 人間の――性差や人種などの違いに関係なく成り立つ――平等を 自由度(これは変化しうる)をふくむかたちで規定できる。動態として。
⑦ 平等を 固定したひな形として想定したわけではないということ。
⑧ 平等の模型をつくったのではない。見本や手本でもない。あるいは 手本なら いろんな手本があるということ。
⑨ 自由にもとづきその自由のひとしさを おのおのが自己表現において具体的にあらわす。文脈などによって多様な平等が 形成される。生きた平等が 問題である。
6. それにしても 人間の自由が互いにひとしい これが平等であると言っても 具体的にそれはどういうことか?
7. 少しでも具象的になるように 意志行為に焦点を当てる。意志による自由な選択行為である。
8. 理論じょう潜在的な行為能力として 選択はあらゆる可能性に自由にわたる。
9. この自由が みなにひとしく享受されるということは おのれの自由〔な選択〕が あなたの自由〔な選択〕と両立しないのでは 意味がない。
10. その事情からも ひとは平等であるという理念がみちびかれるように思われるのだが ならそれは どのように実現するというのか? ほかの人の自由とぶつかっているではないか?
11. たしかにひとつのパンが ふたりの人の胃袋を満たすことが出来るか? と問わねばならなくなる。
12. したがって・あらためて 平等は 動態である。ひな形として提示したわけのものではない。
13. 自由意志の自由が みなにひとしくそなわっていること。これが 平等だ。
14. 互いの自由が――有限性の世の中にあっては―― 衝突してけんかになる。このときには おのおのが自分の表現した自由に(自由に表現した発言に) 答責性を持つということになる。
15. 自由は ひとたび発したなら その自己表現は答責性を帯びる。
16. 相手のそして自己の意志自由をとうとぶゆえである。説明責任を果たすことまでが 自由ということに入る。
17. 答責性を帯びた自由な発言をその内容で 言わば競う。この限りで 社会は 自由競争である。
17-1. 発言や思想についてよき内容のほうが けんかに勝つ。対立する諸見解を総合してよくまとめたあたらしい内容が 勝利する。
18. 平等は もはやこの自由の〔展開する相互関係なる過程の〕――各人における――自由な享受というかたちになる。
19. 自由な享受あるいは自由な参加 それには特に《権利》という概念で説明することになる。
20. 思想等々 自己表現の自由への権利。答責性は 義務だ。
21. 義務と権利。義の務めが 自由であり みんなの取り決めとしては その自由にともなう特典が 権利である。自由には答責性がともなうのは 自明の原理であった。
22. 男女の平等は 自由を各人が問い求めるときに具体的な権利として言い表わされ 男女同権という言い方もされる。
23. 移動の自由 職業選択の自由等々 これらの自由が 人間のひとしい権利として憲法において規定された。この人間に性差の別はない。
24. さて ところがこのあたかも純粋概念で建てた基礎理論は じっさいには現実に実現しているとは限らない。
25. 自由どうしのあいだに けんかが生じるとき われらはどうするか?
26. 真理は中間にある? あるいは 互いの対立を止揚する? 弁証法過程は 実現するか?
27. 一方の側が ごねたら どうするか? 既得権益にしがみつきいっさい聞く耳を持たないとき どうするか?
28. もし誰かが――たとえばわれらがいにしへの『古事記』作者が―― 自由 平等そして《ゆづりあひ》という理念をかかげたとしたら どうか?
29. 駄々をこね甘え続ける勢力を前に 理念においてゆづらず その現象行為においてぜんぶゆづる・・・としたら?
30. 対立は いっこうに解けない。弁証法過程がすすまない。相変わらず既成概念が君臨しつづける。――しかも ゆづり愛は これをそのまま受け留めている。何もしない。
31. 世界の変革は いっこうにはかどらない。百年 二百年が経つ。
32. ゆづり愛は 駄々っ子がめざめるまで俟つという。千年も俟つという。
33. その包容力が ものを言うだろうか?
34. この自由・平等・ゆづり愛なるパックス・ヤポニカは 果たして有効か?
35. 300年頃 やまと・三輪山のふもとに興ったイリ市政 すなわち崇神ミマキイリヒコイニヱ(アマテラス公民)とオホタタネコ(スサノヲ市民)とで築いたこの民主主義は 400年から500年にかけて勃興し台頭したカフチ(河内)のアマアガリ思想にもとづくタラシ政権に 《くにゆづり》を成した。
36. そして 千五百年 しづかにそのパックス・ヤポニカの道をあゆんだ。――お気に召しませんか?
37. ユヅリアヒの精神は ときに――あるいは ちょっと見ただけでは いつも――死んでいるように見える。けれども 世界にほこる民主制であるか? ユヅリ愛は ほこることなどしないか。この〔わたしの〕ように でしゃばったらすべては水の泡か。