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哲学いろいろ

哲学は科学でしょうか?

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 
 ☆ 哲学は 科学でありえますが 世界の認識よりも人間の意志をおもんじるかぎりで 自然科学とは別の行き方を採ります。

 哲学が 科学であると言える範囲は 次のようです。

 すなわち 定義を共有することで 主観を主観共同というかたちにおいて互いの接点をつくり そのことで――つまりは 共同主観とは コモンセンスのことでありこの前提において―― 客観性ないし普遍性を或る程度確保しようとします。

 文学や芸術は 主観のみで突っ走ります。個人の想像力によって話をすすめます。その結果が どこまで共同の主観でありうるかを問うているかたちなのだと捉えます。
 (芸術における美が 共同化されなくてもよいという見方は また別であるかも知れません。保留します)。

 科学は 主観を仮説として提出しそれとして互いに受けつけているかたちを取る。これは 定義の共有を定義の新説から始める場合にひとしくおおむね哲学と同じことだと考えますが そのあとの実験による再現性が それとして客観性を確保すると見なすものと思われます。 



 言いかえると 個々の人間の意志いかんにかかわらず普遍性があるとみとめられたときに その世界認識は かなりの程度において客観性を持つと見なされるのだと考えます。




 ところが 哲学は 認識を問うよりもむしろ人間の意志をおもんじ 世界を意志行為の錯綜するあつまりだと見るはずです。
 

 ただし 意志の内容を じつはほかの人間が忖度することはあっても その主観を互いに押しつけることはあり得ません。それが 良心・信教の自由や表現の自由を公理とすることであると考えられます。自己表現ないし主観の自由という意味です。

 それでも 世界は意志行為によって成り立っていると見るはずです。
 

 その結果として得られる結論は ひとは互いに意志をおもんじ 自分の意志を・そして相手の意志をも踏みにじることはあり得ない・あったら 無効である。――となると考えます。

 (世の中が シガラミによって成っている部分は 無効の意志行為が 社会力学的に有力となって言わば悪貨が良貨を駆逐するかのごとく それでも《現実》となっている。と見られます。人びとの有効な意志は 無効で有力な意志行為に対して 《くにゆづり》をしています)。


 このように意志自由とそれの尊重をめぐって 出来るだけ普遍性(単純には合理的なあり方)を問い求める。主観の共同化をつうじて世界のウゴキのあり方についての普遍的な内容(つまりは 互いに合理的に了解しうる内容)を目指します。それによって意志疎通をつうじての互いの交通(まじわり)がなめらかになる。これを哲学は 目指すと考えます。共生だと考えられます。

 そのとき自然科学は 定説の確定性にもとづき主観共同と成りうるかぎりで 哲学の推進のための補助となると見られます。