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哲学いろいろ

哲学は進歩するか

認識論も 哲学の一分野ですが 哲学は 認識の獲得にはとどまりません。

 哲学は 意志を問題にします。

 人びとそれぞれの意志にかかわらず事象として成立するものごとがあるとすれば それとしての世界認識があり得て これは 科学です。つまり哲学は そのような自然科学の成果をも用いて どう意志するかの問題にすすむということになります。



 
 ところが 意志は それがじっさいに問題としてまたは問題解決へ向けたかたちとして現われるのは 外面の場であり 社会一般についてもその外形的な仕組みにおいてです。

 要するに 意志が問題だというのは ひとの意志をおのれが・または他人が踏みにじることを嫌うということに還元されます。



 
 慰安婦が問題となるのは 本人の意志を無視していいように扱うことにあります。

 別様に言えば この社会において 当人の意志をないがしろにするような思惟および行動は 広い意味の暴力であり 無効であり不法行為であると考えられています。



 いくらかの昔にあっては 世の中にひとり神聖にして侵すべからざる存在がいて――アラヒトガミとも言われたようですが―― その権威としての存在が言うことには 絶対的服従だというふうに だいたい成っていました。
 

 これは 一方でその神のごとき存在に対しては 人びとはおのれの意志をすべてあたかもゆだねているというかたちを採り 他方では そのほかのずべての人びとは互いの間では あたかも平等であって 互いの意志をとうとぶというふうな仕組みとなっていました。タテマエとしてですが おおむね そうでしょう。悪名高きクリスチアニズムにしても けっきょくそういうことでしょう。

 これが いやいや 一人ひとりの意志を尊重しようということに 社会の仕組みとして具体的に現実になってくれば それは 哲学の進歩だと言えるのではないでしょうか。
 《シャッポ》によってみなが平等であるという仕組みを採るのは まだまだ弱さの証拠だとなるでしょう。




 けっきょく 社会は ひとの意志如何にかかわらず 声を大きい者が勝つのだといった見方が なおあるとすれば ぎゃくに 哲学は進歩していません。

 すなわち社会力学上 その意志行為がたとえ相手の意志を踏みにじる無効の暴力行為であったとしても チカラとして有力であるなら それが通って行くというのであれば たとえ民主主義と言っていても 進歩はありません。

 そういう問題なのではないでしょうか。


 極論すれば 哲学は すでにひとが哲学としておのれの内に自覚したとき まったき内容としてそなわっている。ただし 人びとのあつまる社会にあっては その潜在力としての哲学がそのままではなかなか効力を発揮しない。歴史的な地域的なシガラミが 邪魔しているということでしょうか。