caguirofie

哲学いろいろ

悪は存在しない

ご回答をありがとうございます。


 ★ 何故、大胆に高慢に突き破る必要があるのですか?
 ☆ ヤマシサ反応が出ているときに これをないがしろにするという選択がありその努力がともなわれます。

 たとえば ポーカー・フェイスという呼ぶ心の状態があります。
 これは ゲームの問題とすれば何の問題もないのですが しばしばけっきょくウソをついているときにそのウソを隠しているという場合にもそれを指して使われます。

 つまり ひとは生まれつきそなわった身と心とによれば この――マイナスの善にかかわるところの――ポーカーフェイスは 自然に現われるものではありません。そのさまを意図して装うのです。先ほど言ったようにそれ相応の努力が要ります。

 これが 違法行為すれすれの商行為や人間関係における接し方をすることが 言わば常習犯のごとくになってしまったという場合には――つまり象徴的に言って 《ポーカーフェイス状態》があたかもその人の通常の姿になってしまった場合には―― それは明らかにヤマシサ反応を《大胆に高慢に突き破っている》と捉えられます。



 ★ もし善が元々の状態であるというのなら、そのまま善のままでいるだけで良く、無理をして突き破る理由など無いではありませんか。
 ☆ という場合もが もちろん想定されます。

 ただし じんるいは――ということは 生まれてくる者がことごとくみな―― あの木から採って食べることはどうもヤマシサ反応が起きるというとき この心の気持ちをないがしろにして やはり採って食べることを選択したのです。

 心の自然な気持ちにさからうという意味で ウソ・イツハリの問題です。ウソ・イツハリが へそ曲がりの原初的なかたちです。

 《無理をして突き破る理由など無い》にもかかわらず これを突き破ったのは なぜか? なぜなのでしょう? みなさんにおしえて欲しいと思います。

 つまり いまのわたしの善悪論は ヤマシサ反応をそれでも人は突き破ったという事実を捉えてそこから出発しているだけだとは言わねばなりません。



 ★ つまり、その様な(善を突き破るような)行動に出る事を欲する人間が居るという事は、即ち悪が存在するという事になるのではありませんか?
 ☆ これは はっきりとした答えの用意があります。心が おのが心の気持ちを どういうわけか 棄てる。なぜか?

 自由意志が おのれの持ち前の心としての意志を どういうわけか 捻じ曲げてしまって もともとの自分を無視する。なぜか?

 人間の心も自由意志も 移ろいゆかざるを得ない相対的なものだからだと考えられます。自由意志の自由のチカラは有限だと見られます。

 ぎゃくに言うと 自由意志の自由度は 人間が思考し想像しうる範囲内だとしても その駆使する自由度は 限りが無い――つまりは おのれの心の自由に・自由な心にさからう自由をも持つ――と考えられます。アダムとエワの昔から そのようであったと認識され得ます。

 この人間の自然本性――身と心との自然なる本性――が相対的で経験的で有限であること。ここから 善の片向きが起こり それを損傷させるまでの意図や志向性をも持つに到る。マイナスの善が生じる。

 つまり 善から・あるいは自由から・あるいはおだやかな心の気持ちから それらの反対が生じる。



 これらのマイナスの善が 悪でありその悪としての現象があるということは この悪というものも《存在する》のではないか? という疑問ですよね。

 そう考えられますか?

 問題は 基本として言って 善や自由や自然本性が存在するところからそのマイナスが生じるという基礎的な事柄にあると思います。

 悪が プラスであって先に存在するのだ そこから悪のマイナスとして善が現象する場合もある。――というふうには 理論づけがたい。のではないでしょうか?

 悪が 人間の自然本性としての性質ないし性格なのでしょうか?

 ここまで来ると 人びとの感覚の問題にまでなってしまったかも知れませんが。

 悪は そこに善がいるのを見つけて何がしかのわるさをしてやろうというところから始まるのではないだろうか。

 悪が初めから存在していて その悪をおこなうだけだとすれば もうそれは悪とは言わないと考えられます。

 善とペアを組んで どちらかがプラスで相手がマイナスだという見方も プラス・マイナスが多少とも価値観を表わすとすれば 意味のないものとなります。

 もし善と悪という言葉はあるとした場合 それはけっきょく 右と左とか 東と西といったペアと同じでしかない。となるはずです。良し悪しにかかわりがなくなります。




 ★ 自然な状態が必ずしも量的に最大の状態であるとする理由がどこにあるのかという問題
 ☆ この捉え方は 少し違うと思います。

 善からヤマシサ反応を繰り出す自然本性の自然なよき状態は 《量》の問題ではなく いくら善の欠けが生じると言ったとしても そのような量にかかわる表現というのは あくまでも比喩です。

 自然本性にそなわった善(あるいは 自由つまり 責任をつねに帯びた自由)が傷つけられてたとえば半分欠けたと ときに表現したとします。けれども その表現の心は 自然本性のふつうの自然の心がとうといということを 互いに確かめ合おうとしているのであって あぁ とうとう半分になったかとか まだ半分あるぢゃないかとかという量の問題を言うためのものではないわけです。

 別の言い方をすれば 仮りに善の損傷が・つまり悪が 精神の全体を覆ってしまったとします。けれども 心は それでも――われに還るチカラが欠けていないし 欠け得ないと見られるからには―― やはり精神の全体にわたって 潜在するかたちとしてでも生きています。紛れもなく生きています。泉の水は涸れていません。涸れません。

 有限で相対的なものですが 心は枯れないでしょう。自然本性は 量の問題ではないからです。それでも 移ろいゆかざるを得ないとは見ていますし そう言うのですが。

 ひとは かなしいかな・いかんせん 朽ちますが。

 この限りある存在について どちらかと言えば その自然本性は 自然にしてふつうに善であるとたぶん人は見なしていることでしょう。

 こういう限界のある理論ではあります。


 



 ★ 善なる状態にあとから悪が加わったという事は、即ち、悪とは善が欠けた状態などではなく、悪は善とは別に独立して存在するものであるという事を意味します。
 ☆ すでに 善の中から――それは 絶対のチカラや状態ではないのだから――マイナスの善という切っ掛けに遭ったりすると そちらへとおもむくことがある。という説明まではしましたが そのとき そのマイナスの善は 善とは別に存在する悪というチカラが キッカケを提供するべくはたらくのだという見方だと思われます。

 善が存在することは認めたとしても その善とは別に悪も存在するのではないか? この見方が捨てられたわけではない。とおっしゃっているのでしょう。

 この問題を お礼欄へ継ぎます。

 (つづく)

投稿日時 - 2015-09-23 09:04:49
お礼
 (つづき)

 ★  質問者様の論理では、善なる状態に「ウソ」や「イツハリ」というが加わった状態が悪だという事になってしまうので、それでは悪が善が欠けた状態であるという事が出来なくなってしまいますよと申し上げているのです。
 ☆ これについては すでにお応えしています。

 善あるいは心の自由(自由なる心)は いかんせん限りあるチカラであって 移ろいゆかざるを得ず しまいには朽ちてしまうという見方をくつがえすことは むつかしいことです。

 つまり 取りあえずは 相対的で有限なる善が 月の満ち欠けのごとくに(また 量による比喩を出してしまいましたが) 傷を受け得る。つまりは むしろ自分から自分を傷つけることがある。と述べました。

 あるいはつまり 光も曲がるということが起こる。突然変異と言いますか 道を逸れることが 心にもある。といった説明までですが。

 つまり
 ★ 善なる状態に「ウソ」や「イツハリ」というが加わった状態が悪だという事になってしまう
 ☆ ことはありません。それは 表現も内容も違います。
 ウソ・イツハリは 善の中から生じます。善が ヤマシサ反応を送って止めようとしても その同じ善が この反応の止めるのを聞かず 突っ走ります。ウソ・イツハリは 善に外からも内からも《加わった》ものではありません。

 善を これまた量的な比喩になりますが 部分的に損なうということが起きるのです。マイナスであり そのマイナスの部分が欠けた状態が現われます。これを 悪と呼ぶだけのことです。善なる意志が へんな自由度を持って その悪を選択し実際におこないます。




 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 >《悪が抜けた状態》とまで表現して言うのであれば そのときには〔悪の可能性をふくみつつも〕善なる状態が《存在する》と言えるのではないですか?

 その様な論理が成り立つのであれば、

 [・・・]〔善の可能性をふくみつつも〕悪なる状態が《存在する》と言えるのではないですか? と言う事も出来るのですから、その論理ではどちらが欠けているという事も出来なくなります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 善が欠けた状態〔なる悪〕から もとの善だと思われる我れに還るということが 起きます。その反対は 起きないし ないと考えられますが どうでしょう?

 そして 補足欄に述べたとおり 《善が抜けた状態》というのは ほんとうには・実際にも 考えられません。我れに還ることが起き得るというのは 善をぜんぶ(また 量的ですが)損なってしまい善はすべて欠けてしまったという場合にも 自然本性としての善は 潜在しつつも 生きていることだと見ました。

 《善がまったく欠けてしまった状態》にあっても その言わば善の器としての自然本性は生きています。砂漠に水が湧き出るのではないでしょうか。

 こういう話になるというのは この議論がすでに良し悪しを問題にするという前提に立っているからです。


 次はおもしろい議論になると思います。:
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「言いかえると (i) 悪が存在する。(ii) この悪が みづからを偽って悪である事を否定し、悪ではないように装う。つまり悪が隠されている状態としての善が生じる。(iii) そして善とは そのように悪なる本体が表面的には欠けていてマイナスとなっているかの様に見える状態が善という現象であり これのみを言う。
 こういう善悪観も成り立つ。ということになります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ (i)は そのままでよいのでしょう。(iii)もそれほど問題の核心をつくほどでもないと考えられます。(ii)が 問題です。:
 ★ (ii) この悪が みづからを偽って悪である事を否定し、悪ではないように装う。つまり悪が隠されている状態としての善が生じる。
 ☆ どうでしょう。どうなんでしょう?

 (あ) 《悪が みづからを偽って》とありますが そうすると 悪は・つまり悪も善と同じように 《みづからを偽っていない》ふつうの状態があるということでしょうか? それは どういう状態でしょう?

 (い) つまり そのようにみづからを偽らない存在である悪というのは そこに自由意志がありますか? そしてこのイツハリをおこなおうとするときに ヤマシサ反応は起きますか? どうでしょう。

 (う) 経験的な感じでは そういう場合を想像することすらが 不自然であるのではないでしょうか。

 (え) 《悪が 悪であることを否定し》とあります。《否定する》対象としての悪が 存在するのですか? 存在するのなら 否定する必要はないでしょう。ただ悪であることを隠しウワベをつくろうという作業をするだけではないのでしょうか?

 (お) つまり 悪はみづからを否定するのではなく 悪なる存在でありつづけてそのオモテの姿を 悪そのままに示したりあるいは悪を隠して善をよそおったりするだけでよいはずです。つねに悪なる存在は 潜在的だけとしても《生きつづける》はずです。

 (か) 《悪ではないように装う》というのは 悪ではない姿によそおった悪ということのはずです。善が悪を方便として用いるときにはそうです。悪をよそおった善です。悪は どうなのですか? 
 
 (き) 悪ではないように装った悪というのは つづく判断にあるように:
 ★ つまり悪が隠されている状態としての善が生じる。
 ☆ と言えますか? 《悪ではない姿》は そこから善が生じるのですか? そうはならないでしょう。だから (iii)は この(ii)からみちびいているという点では 大間違いです。問題です。

 (く) 善は 勝手に善の損傷つまり悪をなすことがありますが 方便として悪をなすこともあります。悪は 悪ではないようによそおうと言う時 確かに悪には見えないのかも知れませんが 善に見せかけるというわけではないでしょうし 方便として善をおこなうということもないでしょう。

 (け) つまり もし悪がみづからの悪を《否定し》悪でないように装ったなら それでもやはり悪でありつづけます。もし善として見えたら・ましてやそこに善が生じたとしたなら それは 《善という存在》を大前提とした話から出発しているからです。善に依拠して そのような悪のおあそびを想像しているに過ぎない。

 (こ) つまりは 善がその人の好みかいたづらかによって悪と成る。場合がある。そのあと この悪が 善をよそおう。つまりは ひとをだますためにである。善をよそおわなければ 人をあざむくことは出来ないと知っている。つまりは 善なる存在を大前提としている。

 (さ) あざむかれるということは いかに無知で阿呆だったからだと言っても その人が存在していなければ 起きません。ひとが自然本性として善なる存在であるゆえに マイナスの善からのペテンや詐欺にかかることが可能である。

 (し) 詐欺にかけペテンを仕掛けることは すでに心の自由意志をあざむいて踏みにじることであるゆえ 善ではなく善からの逸脱(損傷)状態がおこなうことです。悪です。ただし この悪が 初めに存在していて出現するというようには 考えられません。

 (す) 善なる存在(たえず善に還り得る存在)ゆえに 悪をおこなうことができる。悪が みづからが善と同じように存在であるゆえに 悪をおこなうというのは 考えられない。

 (せ) どこかにそういう国が あるのかも知れませんが。スパルタでは 子どものときから盗みを言わば善としておしえていたそうですが。おそらく ほかの国ではそうではないことを知っていて それらの国に勝つために自分たちの方策を練ったのでしょう。善という存在がやはり前提だったのでは?


 (そ) ★ つまり 《善が存在する》という仮説は 悪との関係があいまいになるようです。 / 善の欠けが悪だという定義だけで押し通すと 不自然なほうへ逸れて行ってしまうようです。
 ☆ というようなことは ないと考えます。




 《実践倫理の問題うんぬん》は 次のことを言おうとした捉え方でした。:
 ☆☆ (No.8お礼欄) 善が善でありつづける選択をするかどうか その他その他は 人それぞれです。
 ☆ つまり 善の行動の場合についておたづねでしたので 悪の場合については 考慮していませんでした。


 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  >善は ヤマシサ反応が出ない段階においてもじゅうぶん自由にいろんなことをすることができます。ところが悪は つねにヤマシサ反応を突き破って押し進める行為になるという性質がありますから そのぶん善の場合とくらべて 意図的であるということの度合いがつよい。

 全く同様に、
 「善は悪への誘惑を否定して押し進める行為になるという性質がありますから そのぶん悪の場合とくらべて 意図的であるということの度合いがつよい。」
という事も出来ます。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ これは 議論がみだれています。《ヤマシサ反応が出ない段階》を示しているのに それをあなたは無視しています。いちど注意を喚起する意味でも触れました。


 ★ 大体、質問者様のヤマシサ反応の話は善が存在しているという事しか主張しておりませんので、悪が善とは独立した存在である事を否定する根拠にはなっておりません。
 ☆ 善が存在するのであって 悪は善の行動についての関数であるという理論の中に ヤマシサ反応の話が入ります。