caguirofie

哲学いろいろ

世界のフラクタル構造

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

 1. 神は 自分のすがたに似せて ヒトをつくった。
 〔創造主と被造物というのは そういう表現の問題である。特には 次から述べるように 両者のあいだには埋めつくせない隔たりがあるということを言っていると取るべきです〕。


○ (ひとは カミの似像である。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
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 2. 神は三位一体の神として 光にたとえると 父なる神は光のみなもとであり 子なる神はそのかがやきであり その父と子とから発出すると言われる聖霊なる神は 光の明るさやあたたかさである。

 3. 光の比喩は まだまだ 経験事象に例を取っているだけに 神のことを表わし得ていない部分がある。

 4. その分かりづらい部分としては:
  (あ) ひとつに 光源と発耀と明・暖とは 神において時間差がないこと。
  (い) ひとつに 神の三位一体においては――フラクタル構造にたとえるごとく―― 父も子も じつは聖霊と同じくそれぞれ聖霊である。光源も発耀も それぞれ明・暖である。子だけが発耀であるのではなく 父もそして聖霊もそれぞれ発耀としての光である。また父だけが光源であるのではなく 子も聖霊もじつはそれぞれ光源である。

 5. ひとは 神に似せてつくられているとすれば その自然本性が 神のその三位一体なるすがたに類似していると捉えられる。
 〔繰り返しますが 創造主と被造物といった規定は ただ表現の問題であると思われる。生まれつきの存在の成り立ち――自然本性――を問題にしています〕。

 6. ひとは身と心とから成るが 心の領域について 三位一体の似像を捉える。
 自然本性は 記憶と知解とそして意志とから成る。三つの行為能力ないし能力行為。

 7. 《記憶》は おぼえるというとき整理整頓といったかたちにおいてその秩序作用にむしろ焦点があたる。精神の中核である。
  この記憶から人間存在の公理――すなわち自由や平等あるいは愛――を引き出して来ると思われるごとく そしてまた法の精神がそこにやどり 自然法としてもやがて人定法としての法律の淵源となるように 自己秩序というはたらきが 記憶の基軸である。

 8. 人の存在が自由であるなら 人は互いに自由である。自由であることが互いに平等であるかたちになっている。よってこの《自由――または先取りして 自由意志――》は互いにとうとばねばならない。これが 愛である。といったことがらを精神の中核たる記憶から引き出して来るのは 知解という二つ目のハタラキである。《知解》が 父たる光源からの発耀としての子なる神に喩えられる。

 9. 一人ひとりが自由な存在としてある ゆえにこれを互いにとうとぶという知解を得て これを心つもりとして持ちさらに自己表現に移すのは 自然本性の三つ目のハタラキである《意志》である。この意志が 聖霊なる神に似るものとして 光の明るさやあたたかさに喩えられる。《愛》である。ただし 人間の意志は その自由意志の中身として 明るさに背きあたたかさを踏みにじる負の愛も くわだて得る。おのれの心にしたがうという意味での善に背き 負の善すなわちそれとしての悪をもおこない しかもときにはこの悪を好むことすら 《自由に》おこなうようである。

 10. これら三つのハタラキから成る自然本性は 神の三位一体に似ているが はなはだ隔たりのある類似であると言わねばならない。
 神は (4‐あ / い)により 存在が存在であるしかなく 自由が自由であるしかなく 愛は愛であるしかない。そしてそこに・つまり三つのペルソナ(位格)のあいだに 時間差がない。つねに《一体》である。《無限》とはそういう意味である。

 11. しかるに 人間の場合は 存在がほかの意志のハタラキによって傷つけられ侵され得る。自由がへそ曲がりを起こす。愛が マイナスの世界に沈んでしまう。みなおのれの自由意志が ときには好き好んでこれらをおこなう。

 12. そうして――理論上は――それでも 三つのハタラキはその自然本性において 時間差を持ちつつも 一体であるとも見なされる。自由にはそれと裏腹の責任があると。とにもかくにも辻褄が合うように 神との類似性としての自然本性が 最後にはハタラクと見なされる。(このことを 仏性がひとにやどると言っているのだと考えられる)。
 
 13. これを 人間の三一性( trinity )と言うらしい。三位一体( Trinity )に似ているゆえ。
  つまりは 意志にも自己秩序としての記憶やその知解なるハタラキがやどり 記憶や知解のそれぞれのハタラキにすでに意志もやどるといったようにフラクタル構造を成していると。自省や自浄作用が効くはずだと。