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哲学いろいろ

26. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガ
ラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を
着せてもらってその地位に就き身を飾り立てている・つまり しばしばおご
り高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ
処理していくということ。

 

27. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを
得た)蝶としての社会的使命である。

 

28. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》であ
る。根拠は 無い。

 

29. 初期条件はただ生まれついたというだけの無条件の情況にあって 
無根拠なる根拠において ごみ処理(浄化再生)工場と成る。

30. きれいな酸素をも供給するらしい。
 
31. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも この
ことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として す
でに打ち出されているようであるらしい)。

32. ひとびとよ おのがさとりを得よ。

 

 



1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 
言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限ら
ない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワ
だけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由
に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われ
たとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということでもある)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難
破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たと
えば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわ
った自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そ
こに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思
考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)
ともあるいはルーアハ(霊性)とも言った。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考え
る知性)を超えているので 霊性は 信じるという言葉を当てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ず
であるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)
思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べ
る飛躍の中で こう思った。:

  神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
  るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
  由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
  さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする
ウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫する
なかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔へ
の信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗
教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしら
え この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌
(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それ
にあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれる
なら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰
り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。信仰と
いう蝉の抜け殻である。屁の河童なり。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中
でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分
立しうると考えられるからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによ
って 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学とな
る。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識し
うるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり
分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・
宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に
表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら 
よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 
芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは
哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひ
ょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。



7. 哲学って?

――というふうに いま・ここにあるわれが その世界における位置
関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

知性における哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
感性における自己表現たる芸術行為と同等であると考えられる。