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▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~
自然といふは
自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず
然といふは しからしむといふことばなり。
しからしむといふは行者のはからひにあらず
如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
* 爾(に・じ):しかり。そうである。
▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~
自己を運びて万法を修証するを迷とす。
万法進みて自己を修証するは悟りなり。
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▼(親鸞:有念無念の事) ~~~
(こ) 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住
す。
(さ) このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。
(し) 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をま
たず。
(末燈抄・一 伊藤博之校註)
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▽ (『岩波 仏教辞典』1989年版:無住処涅槃) ~~~~
大乗仏教では 《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》ということが言
われる。・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世
界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世
界にもとどまらない涅槃のことをいう。
〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自
らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩
に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験し
つつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって
活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見ら
れる。
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