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哲学いろいろ

この世には悪魔(サタン)が存在すると思いますか?

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1. 神は 絶対性です。

しかるに 悪魔は そうではない。

2. 絶対性が 人間のこしらえたもの(思考や想像の産物)であるはずがない。しかるに 人知のおよぶもので人為によってなるものなら うつろいゆき朽ちざるを得ない。

3. つまり 悪魔はうつろいゆく思いによって描かれたイメージであり観念である。

 



4. われわれは 事実にもとづきその事物や現象についての言葉を得て 概念とする。概念を 元の事実から離れさせたものが 観念である。まぼろしである。

5. いのちを殺ぎ生きることを妨げるものは 良し悪しの判断として悪である。この場合 悪は 行為事実につながった概念である。

6. けれども 悪の親分のごとき像としてえがいたものは――つまり 悪魔は―― 現実から自由に離れて思い描いた観念である。


7. 悪魔は まぼろしなる観念として人のあたまの中に《存在する》が それはただ その場その時の心理のウゴキとして現象するに過ぎない。

8. なお 運のわるさを 悪魔〔のしわざ〕という言葉であらわす場合があるのかどうか。
 

9. 悪魔は まぼろしであり子どもだましのただの観念である。

観念なら こわれる。

10. ところが この観念をあたかも事実とつながった概念として・したがってまたあたかも《究極の悪》というような概念として 洗練し立派に仕上げた思索が残っている。




11. 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。悪魔を どのように描いたのか。



12. まづ悪は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。


13. ウソと言う限りで ウソでない心のありか・または あり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。
 

14. つまり悪は 悪というものが なにか・どこかに他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

14-1. 悪は 善の関数である。



15. さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

16. これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね)あるいは 精神的に無視し無関心となること(あるいはつまり虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。
 
17. 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。意志ないし心の踏みにじりです。(これを 人権侵害と言ったりします)。




18. ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。


19. ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。

20. これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。

 
21. 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。

22. むろん あたかも現実に根差した概念であると見せかけた思惟です。と考えます。


23. しかも これをなお現実的だと言おうとして 《第二の死》すなわち《究極の悪》を 擬人化して《悪魔》とよび 悪魔は 死の制作者であるという定義がつけられました。万物の創造主に対抗させたのでしょうか。

24. 《死の制作者》。善をことごとく傷つけ破壊する者。この悪魔に取り憑かれ仕えるようになったものは 悪鬼とよばれます。

25. 悪魔の軍団が そこらを生きて徘徊するかのような物語の完成です。
 
 
No.14

26. 続編です。

エスと悪魔の物語をつけ添えます。
 
27. キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます.
 
28. だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。
 
29. 悪魔は その十字架じょうの死の淵にまでは よう ついて来なかった。
 
30. それまでは イエスと同じ足取りでその同じ軌跡をたどっていた。イエスが何をするか その行動を追跡していた。
 
31. ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。
 
32. ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。
 
33. それでこそ悪魔であった.
 
34. すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。
 
35. もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 内から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。
 
36. ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。
 
37. 去って行ったイエスに度肝を抜かれた。
 
38. あらゆるものを否定し死にみちびく仕事に耐えられなくなった。
 
39. よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。
 
40. 文字通り アクマは 腑抜けになったのである。
 
 
41. ただし イエスは その振る舞いを自分勝手にやったのだ。しかも自分は神の子であるという大嘘をついた。人びとは なんら恩に着る必要はない。
 
42. 《イエスは 人びとの原罪をあがなうために・じんるいを救うために 十字架上に上がったのだ》という恩着せがましい神学は 糞くらえである。勝手に死んだのである。神の子なら そう出来た。