caguirofie

哲学いろいろ

#40

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十四章a 補論――遅れたインタメッツォ――

現在の宇宙論によれば――と鈴木真彦と釜江常好は書いている―― 宇宙は今を去ること一〇〇億年以上前に 大爆発で始まりました。

  • つまり 時間が生起した。ないし このわれわれ人間の生きる世界が 時間的に生起した。

この爆発は《ビッグ・バン》と呼ばれています。その瞬間――瞬間であることに注意―― 宇宙は 無限に高い温度と無限に高い密度をもつ空間でした。大爆発のあと 宇宙空間を満たしていた物質は四方に広がっていき 密度は急速に下がっていきました。宇宙が急速に膨張しはじまてともいえるでしょう。気体を急速に膨張させると温度が下がることが知られていますが 同様の原理で宇宙の温度も下がり始めたのです。
(鈴木真彦・釜江常好:素粒子の世界 1・1)

昔の人びとはこの《原理》を 神とよびました。それは 人間の 経験をとおした観想(理論)行為 および 経験にかんする実験による実証行為という部分から われわれが知ることができる。

はじめに言葉(原理)があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この言葉ははじめに神とともにあった。すべてのものは これによってできた。できたもののうち 一つとしてこれによらないものはなかった。
ヨハネによる福音書 1:1−3)

と。《原理》また《真理》は 《時間》のないところに存在すると考えられる。これを《神》と名づけた。《みづからは創られずして創る存在》 言いかえると 《時間のないところの存在で 時間的世界を創るところの原理》 これは 人間的な(経験的な)論法で捉えるなら 《父》と表現することができる。人間がこの《父》を知ることができるのは 人間が経験的な観想と実証との部分的な行為から知るその《原理》によってである。
この《原理》と《父》とは 同一の存在であるが 原理は 人間の言葉ないし概念をもって知るものであるゆえ 同じく人間的な論法で捉えるなら 《言葉》と表現することができる。あたかも人間の記憶(精神)がものごとの知解を生むということにのっとって言うと この《言葉としての原理》は 《父としての原理》の子であると表現することが より一層ふさわしい。すなわち 《創られずして創る存在たる父》が その同じ本質(存在)として 《言葉なる原理たる子》を生みたまうたと。したがって 《はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった》。
さらに《この言葉ははじめに神とともにあった。すべてのものは これによって出来た。できたもののうち 一つとしてこれによらないものはなかった》。ここには 幻想は いっさいない。また《原理》ないし《真理》について 父とか子とかと言われるのは 同じ一つの存在を さらに関係において言っているのである。これを神と名づけ またその《一つの本質》を人間的に捉えて 原理・真理と言い それと同じようにさらに人間的には 知恵であるとか計画(はかりごと)であるとか あるいは霊であるとかと表現して知ることになる。
宇宙を神とするのではない。宇宙にはたらいた 今もはたらき これからもはたらくであろう原理を 神と名づける。自然科学は 実証しうる特定の原理・法則までを認識するが その自己( science であること)の約束にもとづいて 神ということばで 議論はしない。
なぜなら 経験的・時間的な世界である宇宙が 起源そのものではなく ビッグ・バンと呼ばれる《最初の》大爆発そのものが 原理なのではないと考えられるから。宇宙は――たしかにそれ自身の時間的な起源を持つが―― 原理によって創り出されたといわば場であり そのもろもろの物質は これらの場であるとともに自然や人間の素材であるに過ぎないから。
場と素材とが存在して 場と素材のほかには何もないと言うことは出来る。すなわち場と素材じたいが 原理であるのだと。ただわれわれは この原理は 普遍的な真理であろうので そこには 時間に――したがって場や素材にも――拘束されない力がはたらき また真理の力そのものであると見るほうが 科学的であろうと考えるのである。場や素材の運動の中には 神の手にも負えない部分があるとも考えられる。

しかし宇宙誕生の初めの初め 時間でいえば 一秒の一兆分の一兆分の一のまたその一億分の一(10−44秒)くらいまでは 現在の素粒子物理学をもってしても うかがい知ることができない世界なのです。それは エネルギー密度があまりにも高いため 素粒子固有の相互作用よりも エネルギー密度の二乗に比例する重力の方が強かったと考えられるからです。
(同上1・1)

したがって こうだから われわれが神秘の世界を保守しようとして 神を立てるのではありません。いま〔部分から〕知られている世界の原理として それを神とよぶものであるということにしか過ぎません。言いかえると わからないことに対して神とよぶのではなく――それは 無条件にまちがっているということは出来ないが 一般に危険である―― わかっていることがらの原理をもって神とよぶのだと。
これまで見てきた三つの相互作用と 重力との統一的な理論が知られるなら そのときにはさらに 原理なる神をなおよく――それでも部分から知るのであろうけれど――知ることができるかも分かりません。つづけて

このように強い重力を量子論的に取り扱う方法は 未だ知られていません。しかしこの最初の時間を過ぎると 現在の素粒子物理学でおぼろげながら描像を探りだせるようになります。この時期には 幾種類かの基本粒子が 巨大加速器でもはるかに及ばない超高エネルギーで飛び交っていました。どのような基本粒子が存在したか正確にわかっていません。
(同上 承前)

したがってわれわれは今 部分から知ると言われる科学的な方法で 原理を問い求めようとしています。このあと 《推測によると まづ最初に〈光〉がありました。・・・》(前章に引用)と考えられるそうです。現在の光とウィークボソンと糊の粒子となる《原始の光》と クオークレプトンとなる《原始の粒子》とです。つづけて――

多種類の《原始の光》と《原始の粒子》は 超高温 超高密度で宇宙空間を満たしていました。ちなみに温度は太陽の中心部分より二〇桁以上も高く(10の28乗度以上) 密度は一立方センチメートル内に地球が10の50乗個以上入るくらい 途方もなく大きな値でした。・・・ここで考えている宇宙創成のごく初期には すべての《原始の光》や《原始の粒子》は質量が0で同じ相互作用をし 各々の間に区別はつけられませんでした。すなわち 多次元の内部自由度は完全な対称性を保っていました。この見事な対称性こそが 宇宙創成の初期を特長づけたのです。
《原始の光》と《原始の粒子》のもつ巨大なエネルギーに満ちた宇宙は 急激に膨張をつづけます。密度と温度は それにともない急速に低下しました。《ビッグ・バン》から一兆分の一(10のマイナス36秒)ほど経ち 温度が約10の28乗度にまで下がったころ 《原始の光》がもっていた二四次元以上の内部自由度の対称性が少しくずれはじめました。内部自由度の違いによって粒子のいくつかが質量をもちはじめ そのために相互作用の強さにも違いが現れてきます。
この対称性の崩れはひとりでにおこってしまったのです。これと同じ現象は固体物理学相転移と呼ばれる現象にみられます。その機構については 過去二〇年間に十分に理解されるようになりました。この《宇宙に相転移がおこった》という理論は その詳細についての曖昧さはあるにせよ 現代の素粒子物理学の根底をなすものです。これに沿って 宇宙創成の動乱期をたどってみましょう。
(鈴木真彦・釜江常好:素粒子の世界)


   ***


温度が10の28乗度くらいに下がってくると――とさらに考察が展開されていきます―― 《原始の光》や《原始の粒子》の内部自由度間の対称性が一部 自然に崩れはじめ 宇宙の最初の相転移がおこります。これは水蒸気を冷やしていくと摂氏一〇〇度で水になるのと似た機構でおこると考えられています。H2Oで表わされる水の分子が孤立して飛びまわっている状態(水蒸気)は 分子間に働く引力より 熱運動による擾乱の方が強い状態といえます。温度が下がり 擾乱よりも分子がくっつきあう方が安定になり 水分子の凝縮がおこります。

  • われわれは この物理学者に依拠して もう少し引用をつづけます。

このような現象はまとめて相転移と呼ばれますが ここで考えている相転移は実験室の一部でおこるのではなく 宇宙全体が転移してしまう壮大な変化なのです。凝縮をおこしたのは水分子でなく 多数あった《原始の粒子》の何種類かです。そして 水分子が多数かたまって水になったように 単独で飛び回っていた《原始の粒子》の何種類かが 二個づつ対を組み 全く新しい《凝縮粒子》をつくりはじめます。この《凝縮粒子》こそが 以後の宇宙創成 とくに基本粒子の《進化論》の背景となる重要な役割をはたすのです。
(同上)

もしいま 聖書の《創世記( Genesis )》が次のように言うとき そこでのまづ《神》は 原理であり 《天と地》とはむしろこの段階では 《原始の光と原子の粒子》とであり 《水》は これらの相転移ののちの《凝縮粒子》であると捉えて 必ずしも不都合ではないと言いうるかも知れません。すなわち創世記の最初の二節。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく むなしく やみが淵のおもてにあり 神の霊が水のおもてをおおっていた。
(創世記1:1−2)

いろんな解釈ができると思われ その一つとして 《やみ》と言われるのは その後さらに相転移をくりかえして やがて 原始の光からいまの光が現われ 《神は〈光あれ〉と言われた。すると光があった》(創世記1:3)と言われるように 現在の宇宙が出来上がっていくと考えられるからです。

そして七〇万年が経過し 温度が太陽の表面程度に下がってくると 正の電荷をもった原子核と 負の電荷をもった電子が 原子をつくりはじめます。つまり 電子のもつ熱運動エネルギーが 正負の電荷が引き合う電気力に勝てなくなってきたのです。陽子やヘリウムなどの原子核は 各々のもつ電荷が電子を取りこんで中和されて 電気的に中性となります。(ここではすでに 原始の光と原始の粒子の間の普遍的な相互作用は崩れており 三つの相互作用に分化し 原始の光は 光や糊の粒子また化石としてのウイークボソンとなっています。)
自由電子が消え去ると 光は散乱されることがほとんどなくなり はるか後方の光も見えるようになります。すなわち 宇宙は晴れ上がってきたのです。
素粒子の世界1・5)

宇宙の三回の相転移は 約一万分の一秒のあいだに起こったのですが それから七〇万年の時間の経過ののち 原子が生成されはじめ 光が見えるようになるということのようです。途中の経過を端折っていますと――なぜなら 光は それとして見えなかっただけで ほぼ初めに存在したとも考えなければならないから―― 《やみが淵のおもてにあり 神の霊が水のおもてをおおっていた》(創世記1:2)のち つづけて 《神は〈光あれ〉と言った。すると光があった》(同上1:3)と表現されると考えられ そのあとさらに続けて

神はその光を見て 良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ やみを夜と名づけられた。夕となり また朝となった。第一日である。
(同上1:4−5)

と表現され考えられることに不都合はないように思われる。
ところが ヨハネによる福音は 先に引用したように 《はじめに言葉があった。・・・できたもののうち 一つとしてこれによらないものはなかった》(ヨハネ1:1−3)と記したあと 次のように伝えた。

この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして やみはこれに勝たなかった。
ヨハネ1:4−5)

つまり この場合の《光》は 比喩であります。上に見た《光とやみ》との宇宙の時間的な経過にのっとって 原理としての《言葉》を 人間的な論法で言っている。また この原理を同じく人間の言葉で 《生命》と表現している。
したがって このときの《やみ》も同じように比喩であり――かつ 宇宙の経験的な現象にのっとっており―― 原子の生成や太陽の出現以後の現在の宇宙の中で 人間の論法で その世界にはたらく社会的な諸相互作用に起こりうる《やみ》のことを言っている。創世記とヨハネによる福音と それぞれここではその冒頭の記述を二つ合わせて 現実を捉えることができる。
そして 《やみは夜と名づけられた》あと 《夕となり また朝となった》と創世記も記しているのであって そのどこにも――起こりうべき・また経験的には普通の出来事であるところの――夜となった とは書いてない。《第一日》から《第六日》までのどこにも そうは書いてない。経験的な宇宙世界の時間的な光と闇とは別個に――そのような場や素材とはあたかも別個に―― 生命としての言葉 人の光である生命 闇がそれに勝たなかったところの光が存在し これが 原理であると言っているかのようである。言っていると思われる。
ということは つづいて 

すべての人を照らすまことの光があり 世に来た。かれは世にいた。そして 世はかれによってできたのであるが 世はかれを知らずにいた。かれは自分のところに来たのに 自分の民はかれを受けいれなかった。
ヨハネ1:9−11)

と言うのが ヨハネの史観であり世界観である。これは もともとは普遍的な相互作用として統一されていた力のその原理を 通史的に いな 歴史の中にあってしかもかれには歴史(時間)の存在しないという存在として 伝えようとしているかのようであう。

そして言葉は肉となって わたしたちの内に宿った。わたしちはその栄光( doxa =臆測・主観)を見た。それは父のひとり子としての栄光であって めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネ1:14)

と言うようにである。《肉》とは 素材たる物質の人間としての場である。このことが確かに《まことに満ちていた》と告白するのは かれが真理(まこと)であり われわれはそようにこの真理を分有している。このことが 《めぐみ charis( charity )/
gratia( grace )に満ちていた》というのは よろこびであり気品であり良き《香りの量子数》であり また その分有が ただ(値段の只。gratis )だということを意味している。
これが 言うならば社会力学のほうの基礎理論であると思われたので わざわざ付け加えて――自然科学の成果を冒涜しないならば――議論しておこうと考えた。宇宙創成の動乱期の経過として端折ったところは しかるべき本にあたっていただければ幸いである。


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(つづく)