caguirofie

哲学いろいろ

#41

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十四章b 補論――遅れたインタメッツォ――

もう少し議論を継ぐようにとのクレームがついたので さらにつづることにします。引用に頼るかたちなのですが。

《原始の光》と《原始の粒子》のもつ対称性が

一部ではあるが崩れはじめるにつれ 《原始の光》や《原始の粒子》間の相互作用も普遍性を失いはじめます。
宇宙誕生の初期(1の-44乗秒くらいから10の-36乗秒くらいまでの間)には 大統一された一つの相互作用しかなく すべての粒子は同じ強さで反応しあっていたのです。それが 10の28乗度でおこった相転移のために 現在私たちが見る強い相互作用 電磁相互作用 弱い相互作用の三つに分化したと考えられます。この相互作用の強さや性質は 相互作用を媒介する粒子の質量や内部自由度によって定まるのです。
この《相互作用を媒介する粒子》とは 《原始の光》 またはそれから分化していった末裔と考えて下さい。つまり《原始の光》が重くなって 《原始の光》のもつ対称性の一部が崩れはじめると 相互作用も分化していかざるをえないのです。一般的に言えば 媒介する粒子の質量が重いほど力の到達距離は短くなります。粒子どうしがたまたま大接近しない限り 無視できるほどの弱い力となってしまうのです。また 粒子の質量がほとんど0の場合は 関係する粒子のもつ内部自由度が多いほど 相互作用は強くなります。
(鈴木真彦・釜江常好:素粒子の世界 1・3)

はじめに大統一されていた普遍的な一つの相互作用 これが 原理なのではありません。原始の光や原子の粒子のあいだに 普遍的な相互作用をはたらかせ その対称性をやがて――つまり10の-36乗秒の後――崩れさせるべく崩れさせる力 これを原理と呼びたいと思います。その具体的な働きの例として。
原理は この普遍的な相互作用をとおしてやっと捉えることができるのですが 普遍的な相互作用あるいはそのはるか後の結果として人類の誕生つまり人間 これらが存在しなくとも 存在したと考えられる。言いかえると 人間やはじめの光および粒子ないし宇宙は 原理なくしては 存在しえない。これは 原理の崇拝のためではなく 宇宙(ないし時間)は人間と同じ力もしくは相互作用の次元にあるのだから 人間がこのように宇宙(時間)を知るとき 宇宙がかれの起源つまり原理であるとあやまって思いなさないために言っているのです。
それはつまり 人間が自己を自己の起源であると思いなさないために言っていることになります。これが 科学です。(もっと言うならば それによって 科学的な 自由意志が人間に 確立されていくでしょう)。
しかしながら この同じ科学は 次のことを宣言しました。すなわち この原理は 《世に来た / そして言葉(原理)は肉となって わたしたちの内に宿った》と。これは選択の問題です。科学( sciences )は 部分から知ってその原理を いわゆる科学的に示唆することはできるが それ以上のこと・たとえば 上のようにこの原理が ひとりのユダヤ人 キリスト・イエスとなった またはわれわれの内に宿ったということは 言わない つまりそう言えるのかどうか分からないというのも 一つの選択です。ヨハネらは 《わたしたちはその栄光(臆測・共同主観)を見た。それは父の独り子としての栄光であって めぐみとまことに満ちていた》と言って伝えたのです。(この場合は いわゆる神がかりの結果としてこの観想を得 結果的にこの選択をしていたというほどのことであると捉えられる)。
すなわち それが いわゆる科学的に意味表示することは 《原理》が・《真理》が・また《ひとりでに起こった宇宙の生成はそれであるという恩恵》が われわれ人間の内に宿っている 言いかえると われわれ人間もこの真理を分有できるという一点にほかならない。これが 恩恵であるにほかならない。こういう選択――時間(主観)としてはいわゆる固有時――なのです。宿っていると言ったからには 宇宙も動いているものであったように その人間も動態であります。したがってこの科学は むしろ訓練( discipline =学問)とよぶほうがふさわしいでしょう。

すべての人を照らすまことの光があって 世に来た。かれは世にいた。そして 世はかれによって出来たのであるが 世はかれを知らずにいた。かれは自分のところに来たのに 自分の民はかれを受け容れなかった(――つまり 信じなかった――)。
しかし かれを受け容れた者 すなわち その名を信じた人びとには かれは神の子となる力を与えたのである。それらの人は 血筋によらず 肉の意志によらず また 人間の意志によらず 神によって(――宇宙生成の原理によって――)生まれたのである。
ヨハネ福音1:9−13)

《血筋・肉の意志・人間の意志》 これらは 人間の前史の愛であり たしかに前史から出たわれわれは それらによっても生まれたかも知れない。しかし後史に立った人びとは 容易に――かつ科学的に――このヨハネのことばを認めるでしょう。これ以上の常識はないからです。ヨハネらは まだ素粒子物理学を知らなかったから そのぶん――この現代科学の成果を明示的に通過していないゆえ―― 《神がかり》だと言われうる余地はあったかも知れないということです。
科学によらず科学をとおして 原理によって生まれたと――父と母とから生まれたのであるが 真理によって生まれ直したと―― 選択(信仰)の結果の自己同一性を 認識して捉え伝えたのです。真理(言葉・子)は 真理(父・創られずして創る本性)から生まれたのです。じっさい 《虚無の空間(純粋知識のみとしての科学)など有り得ず 真空にも雲がかかっている》(鈴木真彦・釜江常好:前掲書 §3)というように  素粒子にも物理的にも 価値自由的な知識だけではなく 人間が信じる構造といった雲が 現実である。雲の上の人びと・アマテラス族は これに《疑い》をはさむのです。言いかえると 空気のような身体をもって雲の上にアマアガリしてゆくのです。重力の法則に逆らって もしくは それを錯視して。《血筋によって 肉の意志によって また 人間の意志によって》。
われわれは 後史に立ったとき 人間の自由意志は 人間の自由意志となると 知っている。神の霊が宿るけれども 神の霊そのものではないのだから〔人間としての自由意志が なくなるわけではない〕。
ヨハネらの科学はさらに言挙げをつづけます。

エスは自分を信じたユダヤ人たちに言った。
――わたしの言葉にいつも聞き従うならば きみたちはほんとうにわたしの弟子( disciple ∽ discipline )である。きみたちは真理を知り 真理はきみたちを自由にする。
ヨハネ8:31−32)
――わたしは道であり 真理であり 生命である。・・・
ヨハネ14:6)

わがスサノヲは この国引き上げられた。ただの値段で( gratis =めぐみによって)。

エスはまた言った。
――はっきり言っておきたい。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者はみな 盗人であり 強盗である。しかし 羊はかれらの言うことを聞かなかった。
ヨハネ10:7−8)

というように 血筋によって肉の意志によってまた人間の意志によって 空気のような身体をもって 重力の法則を逆さにしてのように アマアガリしてあの普遍的な相互作用をあたかも司る人びとは 信じる雲を突き抜け 疑う雲に乗って あの歴史的な知性(後史の生活原理)を盗んだ強盗であると宣言されたのです。

やがてあなたたちは 人の子が力ある者のみぎに坐り
天の雲に乗って来るのを見るであろう。
(ダニエル書7:13 マタイ福音26:64)

人は 阿弥陀如来が・菩薩が 幻想(疑いの雲の電磁相互作用)の内にやって来るのだと思ってはならない。真理はきみたちを自由にすると言われる真理を見るということに過ぎない。しかし この生活原理をぬすんだ強盗がいるのである。かれらは まさに 神がかりした。魔女がこれを支えた。
真理(《力ある者》《日の老いたる者》)に 物理的な空間や時間があると思ってはならない。《右》とか《左》とか 場所があるわけではない。宇宙創成の初期にあったと考えられる普遍的な相互作用をとおして この原理をより一層あきらかに知ることが出来るというのである。それは 信じる構造(過程)といった雲に乗ってであって その疑いによってでも また その知識の信奉のみによってでもないことを告知したにすぎない。スサノヲは その後裔の者たち(たとえば 山口の市民)をとおして ザヴィエルら宣教師との自由な井戸端会議をつうじて この告知を いわばはっきりと(顕教的にも)受け取ったことになる。
アマテラスらは 自分たちがスサノヲとあたかも偶奇性(対称性)をかたちづくっていると言い張ってのように この生活原理を先取りした。後から盗んだのであるが 生活原理のその原理より《前に来た》・先にみづからがアマアガリした。かくて 国家の時代。
しかしながら かれ(真理)より前に来た人びとは たとい小部分であっても この雲の構造を推し測り この真理に触れ得た人びとである。かれらは この真理を利用して 科学の知識や技術を用いて 罪の共同自治(交換経済社会)を主宰した。われわれは かれらの言うことを聞かなかったが かれらは雲の上から真理を先取りしたぶんだけ みことのりして われわれに言うことを聞かせた。われわれは 国譲りした。社会の共同自治は この強盗的先駆者たちは 自分たちの主宰による以外にないと ちょうど慣性の法則によるかたちで(前史現実のみを見て 重力質量を慣性質量に替え 逆さにしたかたちで) うそぶき この誤謬へと人びとを渡そうとした。

悪魔がうそを言うばあい その本心から言っている。
ヨハネ8:44)

ただ このうそは 

でも驚くにはあたりません。悪魔でさえ 光の天使に変身するのです。
(コリント後書11:14)

と言われるように 真実と思えるうそである。言いかえると 慣性系の時空間は 曲がっているのです。にわかには曲がっていると見えない。つまり 慣性系そのものにおいて 重力が関与する非慣性系の時空間が――重力はしかし 弱い相互作用接触)によっても 引き起こされるかたちで はたらくと考えられるが―― 存在していることになる。光の曲がることが この視点によって明らかとなった。ただ慣性系では 曲がってきたウソが まっすぐで真実なものに見えるようになっている。アインシュタインは このからくりを明らかにしようとした。
むろん アインシュタインその人が 神なのではありません。重力の関与すると言われる非慣性系の世界(あたかも後史)ないしその理論そのものが これまた 原理なのではない。じつに われわれは人間として盗人でもあるアマテラス族と 同罪であることを免れていないことを知らなければいけない。スサノヲのミコトは しかるがゆえに アマテラスらに譲らなければならなかった。かれらが真理のもとに還ることを俟ったのである。
キリスト・イエス すなわちスサノヲの頭(かしら)である人間キリスト・イエスは その真理の告知を完成させるために みづから欲しられて また人間の貌としては 大声で叫び涙を流しながら 十字架に就き 《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまうたか》と発した。スサノヲに原理を告知したのである。同罪のくもりが 光をさえぎり曲げて見させるので この罪の肉体が死ななければ 真理は見えない そのために かれはわれわれのために 死んだ。《わたしが去らなければ 弁護者(聖霊つまり真理の霊)はお前たちのところに来ないからである》(ヨハネ16:7)という言葉が 原理の この地上での人間における歴史的な進展にかかわっている。原理は 人間がいなくても存在するが 人間はこの原理なくしては 存在していない。

その弁護者が来れば 罪について 正しさについて また 裁きについて この世の人びとの過ちを明らかにすることになる。罪についてとは かれらがわたしを信じないからであり 正しさについてとは わたしが父のもとに行き お前たちはもうわたしを見なくなるからであり また 裁きについてとは この世の支配者である悪魔が断罪されるからである。
言っておきたいことは まだたくさんあるが 今 お前たちには理解できない。しかし 真理の霊であるその方が来るとき お前たちを導いてあらゆる真理を悟らせる。その方は 自分勝手に語るのではなく 聞いたことを語り また これから起こることをお前たちに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて お前たちに告げるからである。父が持っておられるものはすべて わたしのものである。だから わたしは その方がわたしのものを受けて お前たちに告げると言ったのである。
ヨハネ16:8−15)

見よ スサノヲは真理の霊を受けて すがすがしき心になって 次のようにうたう。

八雲立つ出雲八重垣
妻籠みに 八重垣作る
その八重垣を

ぞ。
古事記・上つ巻)

この世の支配者である悪魔が断罪されて スサノヲは自由なイヅモ・コムミューヌ(八重垣)をきづいて行こうという。
妻籠みにという 男の女に対する関係の問題はすでに十分 論議した。またさらにわれわれは 議論してゆくであろう。この八重垣と国家との関係構造についても――とうぜん歴史過程なのであるから―― そのつど 議論し実践してゆくであろう。八雲の雲が意味表示するものについても すでに述べた。悪魔が人間ではないこと 人間が悪魔ではないことについても 論議し終えた。慣性系の世界(前史)を 非慣性系(後史)または本史だと倒錯視させるその作用 これが 悪魔である。


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(つづく→2007-05-27 - caguirofie070527)