caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第六章a 歴史を隠れたところで点検し明るみに出す――キリシタンのこと――

一九八三年五月二十五日の新聞には 《あなたが変わる人間情報誌》と銘打った《月刊 BIG tomorrow》七月号の広告が載っています。いくつかの見出しを拾ってみると――

驚くほど好感をもたれる意外発想――ここに気がつくだけでたちまち変わる 《人から愛される秘密》
マジメなだけではうだつが上がらない これがいまいちばん面白い生き方 《遊び上手27の知恵》
新連載 / もっと楽天的に生きてみないか 藤本義一 好きなことをやって成功するオレの《幸せ研究》
遠藤周作 ああでもない こうでもないと迷う奴ほど 一流の人間になる資格がある
渡部昇一 相手の気持ちが読めないうちはダメ。どうするかで決まる
竹村健一 考え方のヒント 《こう生きたら世の中もっと愉快になる》
鈴木健二 くよくよしないこの《居直り術》の心得
筑紫哲也 たった一つの論理を知るだけで世間の裏も見える
あの一言がオレを変えた 王貞治 一か八か。追いつめられてその言葉にすがって――打った
(《月刊 BIG tomorrow》一九八三年七月号)

もっとありますが この辺でやめておきましょう。これらの《発想9》あるいは生活の知恵は もちろん《主知主義》の問題であり 《知性を認識の道具として創造の道具としてのみならず これを練磨し使っていく》人間の問題です。また この雑誌の言うところでは 《大いなる〈明日〉》という《歴史》の――その開始の――問題です。
無自覚な自給自足主体で生きた縄文人は いわば無自覚的な《今日》であった。これは 無自覚の部分を或る意味で呪術性・宗教性であるとしますと これを疑い自覚的になった交換経済主体であるところの弥生人〔以降 キャピタリスト近代市民〕から見ると 〔昨日〕そして時に《永遠の〈昨日〉》と映ります。ところが実は この《昨日》すなわち《無自覚の〈今日〉》を 疑うことによって(あるいは 《われ考えるゆえにわれあり》によって)解放することは 疑いそのモノの解放を 明後日に残す(先送りする)という意味で 《〈明日こそ〉主義》となりえます。
余剰つまり利潤(われわれの言葉で 第三角価値)の追求に明け暮れしているとするなら そうです。
どうして《きょう・いま》でないのでしょう。もちろん 復活したスサノヲとて その《大いなる明日》が その《いま》実現したわけではないでしょう。けれども 疑い これは今 克服したのです。疑いに(または 疑いを自分の力で晴らすことに)死ぬことによって――もう一度言いかえると 自己じしんの無力を知り わが神わが神なにゆえわれを見捨てたのかと言うことによって―― 疑いから解放されたのです。
キャピタリスムの自由と繁栄とが その今(当時)もたらされたわけではありません。しかし そこではすでに 十全に歴史が始まったのです。自己が自己となった つまり かれは《きょう》を生きた。これほど明らかな復活の歴史はない。《欺かれるなら あやまつならば わたしが存在する》と見出した。地球なら地球規模の自給自足的な交換経済 これの主体とすでになった。
ですから 《あなたはすでに変わった》のであり わざわざこのような《人間情報誌》によっておしえられなくとも 《大いなる明日》は《きょう》存在します。これを 上のような個々の主題で論じる人びとは なお疑っているのです。少なくとも 《考え》ています。しかしながら これを《〈明日こそ〉主義》で前向きに考えることと すでに《きょう わたしが わたししている》ことによって むしろ後ろ向きに前進しつつ考えることとは 微妙にちがいます。
たとえば 《ああでもない こうでもないと迷うほど 一流の人間になる資格がある》というのは そう考えるのは じつは確かにもはや 後史に立って復活のあと後ろ向きに考え 前史を覆いつつ進む過程を示しています。ただ この復活 つまり前史から後史への回転を 頭の中でしか(精神において精神の王国の想像の中でしか)捉えようとしていない。これは 《回転の源泉は愛なり》と見出すのではなく 《源泉なるわが愛よ あなたはわが憐れみであります》と言っていることに等しい。《労苦しないで労苦できるようにしてください》と言っているようなものである。ここでは まだ 旧いわたしが死んでいないのです。
主知主義を自己自身の中に見出している。つまり 自分がむしろ源泉(始原)であると考えている。前史が後史へ回転したのではなく 明日 回転するであろうと大いなる精神において想像をめぐらし あわれみを得ているという体のものです。《ここに来てわが心すがすがし》とスサノヲの復活を享受するのではなく そのような言葉をわたしは明日もつであろうとよろこんでいるようです。林達夫も言っていたように ヴァレリの主知主義は 《〈人間は何を為し得るか!〉というテスト氏(ヴァレリの一作品の主人公)の沈痛なな叫びをその基調に有していることを忘れてはならない》であって もっと言うならば スサノヲのミコトにあっては この《沈痛な叫びなる基調》がすでに向きを変えられ新しく生まれ変わったというのが 新しい歴史の基調であったのでした。
これでもじつはスサノヲも 不安にされ空しくなるのだけれども――なぜなら愛の王国はこの世にあっては 地上の国と入り組み混同している―― もはや わたしでないわたしがわたしするというあの愛の奴隷として生きている。これを人間の自由と言わずに ただ生活の人間の知恵によって ただ部分的なものへの気遣いへ追いやられ ここに人間の動態的な生きる道を見出すことは 自由であるけれども それがほんとうの奴隷の自由であると考えます。
なぜなら それは アマテラスの疑いを自分の力によって晴らすことにまだ絶望していない。つまり自分が 自分そのものが あの愛の源泉 つまり歴史の始原であると 転倒した欲望(愛ではある)によって《考え》ているからです。この人間の大いなる知性は愚かにされたのではなかったでしょうか。この知性 この主知主義はこう言います。

相手の気持ちが読めないうちはダメ。
こう生きたら世の中もっと愉快になる。
くよくよしないこの《居直り術》の心得。
たった一つの論理を知るだけで世間の裏も表も見える。

呪術的ないわば縄文人の生き残りのような《永遠の〈昨日〉》に対して 合理主義的な近代弥生人は このように《永遠の〈明日〉》を説くわけです。これは 何のことはない 経験法則の合理的な呪術にすぎません。あたかも近代アマテラスであるようなかれらは 自分たちの疑い(コギト)が 交換経済の中で価値となって残るためには  《永遠の〈昨日〉》に生きるような縄文人がまだいてもらわないと困ると――めしが食えないと――さえ言いたげです。
こうして 互いに傷のなめあいが続くのであって ここには ついに歴史は始まらない。もしくは スサノヲとアマテラスの歴史において歴史は始まったとするなら これを知らないか または知っていても いろんな知恵を出し合ってこれに蓋をするのです。これは もちろん 経済の問題であって 余剰の商品化 これによる債権・債務の関係 その支配関係によって 人間の人間に対するこの支配関係こそが 人間の本来の歴史であると錯覚しているからにすぎません。またもしそうでないとしても 慰め・あわれみは つまり あの愛も 自分の力によって生み出すことが出来ると説いてしまった。
しかしこの議論を追求してゆくと あまりにも 反省的な意識によるやはり頭の中での後史の想像主義に陥るでしょう。この議論を マルクシストの主知主義者は 経済関係など物象の人間化 人間の物象化として説き明かそうとします。ただ このように人間の物象化と いま 言うのであれば 自給自足主体が交換経済現象に同化してしまったというその本質を いま 知っているのであれば わざわざ 物象化論と言って――その前には 疎外論だという―― これを理論分析的にあれこれいじくってみても 必ずしも始まらない。まづ――わたしは言いますが―― 交換経済論者としてのアマテラスの疑惑 これを自分で晴らすことに絶望しなければならない――途方にくれ眩暈に見舞われるだけではなく この経験法則そのものによる自律と他律にすでに死ななければならない―― このことが先決問題であって 理論は そのあと 後ろ向きに知解作業をおこなっていけばよい。
歴史の錯覚――歴史はまだ始まっていなかったり あるいは始まっているのに始まっていないと疑ってみたり 始まっていない歴史を支配することが歴史であると錯覚したりする―― これが 〔あやまった〕常識となるならば その欠陥を憎み人を愛さねばならない。錯覚がなぜどのように起きるのか これの理論的な追究は なるほど愛であり実践であるように見えるけれども もしそうだとしても この初めの愛が 前史から後史へ回転せしめられることによって その歴史の一貫性が生起して来る。その意味で 理論はまだどうでもよい。
もしこれを 理論的追究によって事足れりと 結果的にしろ」 しているようであるならば それは 物象化した人間の部分的な知恵と同じように前史から後史への回転たる歴史に蓋をしていることになる。はじめの意図に反してそういう結果となる。それは 疑いの克服に対して それに対する自分じしんの力に対して まだ絶望していないからだ。あるいは すでに自分の頭の中で 絶望の唄をうたって 自分ひとりは自分の頭が見出した精神の王国をよろこんでいるからだ。
疑いの王国の強き成功者たるアマテラスにあなたが変わるという人間情報を説くアマテラスの予備軍 そのようにアマテラス予備軍を輩出させようとするアマテラシスト物象化論者なのだと思われる。つまりどちらにも この世の知恵としての人間の真実はある。物象・必然の王国にしろ精神の王国にしろ 人間の愛がある。そしてこのような《 BIG tomorrow 》に向かう愛の中から この愛には絶望し見放されてのように 《 BIG today 》なる愛が生起して来なくては うそです。古事記は嘘を書いたことになる。われわれの祖先は まるっきりバカだということになる。いまも 同じバカとウソを あれこれ面白おかしく あの手この手で創造し知恵を出しあって生きていることになる。
ところが スサノヲは 復活したのです。人間が変わったのです。ただ《マジメだけでうだつが上がらな》かったというのでもなく ただ泣くばかりであったり非行をおこなったりというのでもなく 《泣きいさちる》というように 多少でも《いさめる》の《いさ》の愛をつらぬいて しかもこの人間の愛には絶望しさらには見捨てられて 人間が 後史へ回転しました。《ここに気がつけだけでたちまち変わる〈人から愛される秘密〉》をたしかに獲得しました。《これが いまいちばん面白い生き方》なのです。
これには 歴史をその隠れたところで点検し これを明るみに出す事が必要である。とうぜん自己の前史から始めて 点検する必要がある。
(つづく→2007-05-02 - caguirofie070502)