caguirofie

哲学いろいろ

#9

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第二章b スサノヲのミコトの物語

このあと のちのちの歴史において 反体制運動が 広がったとか それが ともに前史から後史へ転換されたとかいうのではなく――そもそも スサノヲにとっては その方向・志向性において 別であった だから そういうことではなく―― 先にも見たように いまひとつの非行を犯すようにして推移するうちに そこに 王たるキリストが躍り出た そしてスガの宮の新しい生活へと入っていくことが出来たのでした。
その道筋では ひとつの過程として たしかにアマテラスは これほどの罪を――発端において絶対的な罪であるかどうかは わからないその罪を―― スサノヲが犯しても 疑いを持ち続け 怒りもせずに ついにその身を隠してしまう。というほどに アマテラスは なお取り合わなかったのですから――つまり 無関心が死なのであるというべきかのようであり―― スサノヲは そのとき 次のごとくあの叫びを言い表わさなければならなかったはずです。

わが神 わが神
なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ わたしが昼呼ばわっても
あなたは答えられず
夜呼ばわっても平安を得ません。
旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)22:1−2 マタイ福音書 下巻27:46)

そうして――つまり 確かにそうであって この後 追放されるという死を味わう そうして―― 《王はその宮からわたしの声を聞かれ/ 王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました(詩篇18:6)》というのは その後 追放のあと スガの宮で聞かれることになったのでした。ここには ちょうど人間の歴史として 前史から後史へ回転させる力としての愛の王国の歴史が存在するかのごとくであります。スサノヲは 前史の国から 自分勝手に 《神よわが愛よ》と言って その想像において ただちに上昇していこう この呪術の園を軽蔑し去っていこう というのではなかった。むしろ 《ここ》に寄留し その母斑をさえ身につけて あえて愚行をおかすことを避けなかった。そこに 神の国が顕われ この愛の王国(本史)は 前史と後史をつらぬいて 一本の道として つながったと了解されたのです。
 もちろん だから罪を犯せということにはならず すでにこのように 前史の母斑を克服する道が 歴史したのであると了解されたならば この歴史を日本人の歴史としなければならない。ということが ここで帰結されうるにちがいない。このような前史があった。しかもこの前史は後史へ回転させる力としての愛の本史が視られ 復活したとこそ言うべき。
 これが 日本人の歴史の総点検のひとつの例・基本的な一例です。
 オホクニヌシのミコトの場合も同じようであります。この章では省かせてもらいます。言いかえると スサノヲの子孫であるオホクニヌシの場合は すでにスサノヲの歴史を受け取っていたというほどに もはや罪を犯す愚行に訴えなくとも 迫害に耐えることによって 愛の王国が生じる。わずかに そのような違いを人は見出すでしょう。人は終えられたところから始めるというわけですが ただ神の国の歴史的な進展にかんするその基軸については 同じようであろうと言ったのは 人はおのおの ひとりの存在としての一個の生涯で あたかもかれの愛の国が完結すると言ってのように 基本的には スサノヲの歴史をもう一度 経験しなおす つまり 実際にそれを繰り返すのではなく 観想的に追体験しつつ 社会の全体的に 神の国の歴史的な進展*1につらなると言っていなければならないようであるからです。
(つづく→2007-04-25 - caguirofie070425)
 

*1:大きな・基本的な議論については

神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)

神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)