caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第三章b オホクニヌシのミコトの物語

 古事記など史書の伝えるところによれば アマテラスからの使者には いろんなタイプがあった――そして 初めは 必ずしも功を奏さず 使者が何度か何人かに分かれてやって来て 数年 十数年が過ぎていった――と知ることができます。そして けっきょく最後の使者となったのは 武力(腕力)もしくはこれによる威嚇が その接触の基本的な性格であったと知られる。
 このことは あのスサノヲがちょうど昔したい放題のことを為したというのと対応するかのように 今度はアマテラスが 暴力に訴えてでも おまえたちの復活の歴史の秘密は何か それをおしえろ と言って寄こしたかっこうであるのです。それには おれたちの支配下におまえたちも入れてあげようと言っているかのようです。これは 正直に言って スサノヲの愛の勝利を 意味します。むしろ相手側から その宣言をなしたもののように思われます。人は この愛の勝利を――つまり 必ずしも反体制の運動の勝利ではなく 微妙に違って 愛の勝利を―― 絶対に疑ってはならないと思われます。
 もっとも ここで直ちに それによってアマテラスの復活が成ったかというと そうではなかった。むしろ実際には 新しいかたちのというほどの別の疑いをなお持ったのであって それは とにかくオホクニヌシのムラを アマテラスの世界に組み入れてやるということによって 密かに――かれらの研究室において――オホクニヌシのムラの生活原理といったものを吟味してみようということを意味した。つまり おれたちの追放した者たちが おれたちより良き宗教を持っているわけなどないではないか これは疑って見なければならないというわけなのでした。
 たしかにアマテラスたちも 侵略の手を伸ばしたと言っても すべてを破壊しつくそうというのではなかった。その点でも オホクニヌシは 服属の要求を受け容れたのです。愛の王国の歴史的な観点に立てば 受け容れてあげた――すべてを水に流してあげた――のであるかも知れないし 人間の経験的な愛からいけば 主戦論と非戦論とを闘わせたあげく その人間的な弱さによって非戦論に落ち着き(――主戦論も人間の弱さですが――) 長いものに巻かれたのであるかも知れません。
 これが 《国譲り》ですが したがって 事の本質は じつは 《侵略》とか《服属》とかの関係にはないと言わなければならないのかも知れません。
 つまり 大きく言ってここで あの神の国の地上における歴史に 一つの画期的な基軸が見られ 局面もおおきく展開することとなった。一つに アマテラスが侵略の手を伸ばすという経験的な愛(少なくとも自己の愛)をとおして 社会的な諸関係の総和となるという 愛の国の歴史的な土壌としての場が生まれた。(スサノヲのときに この問い求めの場が見出され ここで これが実現した。)この意味でも アマテラスの疑惑――スサノヲだけが なぜ 宗教を拒否できるのか なぜスサノヲは自由なのかに対する疑惑――の克服される場が きづかれた。このように オホクニヌシは 《国譲り》をもってアマテラスに対処しました。(人間の弱きによっても そういう結果を招来した。)オホクニヌシの愛が 歴史を進展させる力なる愛に参画したのだと思います。この意味で 見えざる愛の国なる神は 資本(社会的諸関係の総和つまり愛)の推進力であると言うことは 間違っていない。(アダム・スミスら。――これは 博愛心などの道徳・倫理規範〔としての愛〕・また慣習(宗教)・掟・法律が われわれの社会生活の推進力なのではないという点をもって。) 
 こう考えてくると 経済的な意味での資本つまり要するに 経済活動としての取り引き(つまり時に戦争とまで形容されうるようなそれ)にかんしても 人は必ずしも 経済的な戦争や侵略を第一の目的としているのではなく 自由な――そしてむろんそれには 繁栄がたしかに伴われなければならないが――経済主体に対して その秘密を盗もうと つまりそれを知りたいという欲求へと促されるというのが 事の実態であるのかも分かりません。この欲求がすでに人間の愛だと したがってそこに 資本推進力が あたかも見えざるところでは神のごとくして はたらきたまうというのかも知れない。もっともこのことは 資本なる概念=現実を 経済的な側面と愛のそれとに分け どちらか一方に片寄るということを意味しないはずで いまオホクニヌシのミコトの物語に現われた歴史的基軸を勘案するに 現代の視点からは 《資本》とか《社会的諸関係の総体》とか・またわれわれの言葉で《やしろ》とか《愛》とかの概念は 現実に構造的にこのような拡がりを持って〔過程的に〕捉えることができる。このことを示唆していると考えるのです。
 すなわち すでにここで現代の視点と重なって 歴史――いまは日本人の歴史と特定している――が われわれの内省(また観想)の領域では あのスサノヲのミコトの歴史に始まると考えたいと思っています。そういう観点が ひとつ あってもよいのではないかというものです。その上では この視点をもって 日本の歴史を総点検していくことができる。あたらしい日本の歴史が見出されるのではないでしょうか。
 繰り返すなら スサノヲとオホクニヌシとの両物語を通じて 全体として日本人の歴史が 基本的に 始まったと。もしくは そのいくつかの基軸をもって この歴史の基調を提供している。このように 初めの大前提(1 神の国について)を受けて ひとつの序論とすることができる。愛または愛の国の歴史としての日本人の歴史。人間の愛(下卑な欲求をも含めた愛および資本〔再生産〕行為)と その愛の源泉と想定される愛・その推進力としての愛 これら両者の互いに入り組み関係する過程たる歴史。要するに生活――日本人として自由な――の歴史。
(つづく→2007-04-27 - caguirofie070427)