caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考

2006-04-07 - caguirofie060407に《ユダの福音書》問題について書いた小論の続考です。

はじめに

この小考の意図

・・・
ユダの福音書》には イエス・キリストの弟子ユダがローマの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従ったからとの内容が記されていたという。

13枚のパピルス古代エジプト語(コプト語)で書かれたユダの福音書は、「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まる。イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。
・・・

このような解釈が出てくるいきさつを考えてみました。この解釈に対する次のさらなる解釈については 意味がないということを論証するためのものです。

解読したロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。

すなわち結論は ユダの行為は裏切りであり 悪だというものです。

裏切り行為だったことは 表面だけとしても 事実であり 認めねばならない

まず たとえば聖書記者マタイによれば イエスがはっきりと 皆の前で ユダの裏切りを事前に指摘する場面が 次のように伝えられている。これを確認しておこう。

一同が食事をしているとき、イエスは言った。

はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは非常に心を痛めて、《主よ、まさかわたしのことでは》と代わる代わる言い始めた。イエスは答えた。

わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。

エスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、《先生、まさかわたしのことでは》と言うと、イエスは言った。《それはあなたの言ったことだ。》
マタイによる福音書 26:21−25)

したがって ユダの福音書を書いた記者さらにはその信奉者たちが言おうとしていることは 仮りにこのマタイの記述が事実であったとしても その裏切りの行為は すでに イエスとのあいだで 話が整えられ 了解済みのことだったというのであろう。
だから 問題は 裏切りであるかないかには ないはずだ。裏切り行為は 歴史的な事実であると まず確認しておけるはずだ。仮りにたとえイエスが ユダに 秘密裏に 《自らを官憲へ引き渡すよう指示した》というのであっても その表向きの・建て前の意味は 裏切り行為である。
ちなみに マタイによれば 上の最後の晩餐の前に ユダが 金と引き換えにイエスを引き渡す交渉をしたと 書かれている。  

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、

あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか。

と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
マタイによる福音書 26:14−16)

ともあれ 引き渡しということは それが事実であれば 一般に 裏切り行為であると まず確認しておこう。つまり マタイの書くことなど信用できないという人でも イエスの《〈真の私〉を包むこの肉体を犠牲と》することを ユダが引き受けたということまでは認めている。一般にこれは 裏切り行為である。 
したがって問題は イエスとユダとの間に どんなやり取りがあったのか あるいは なかったのか これにある。

  • ちなみに 裏切り行為というのは 自分を信用しなくてよいと宣言することである。
  • ちなみに 不倫は 裏切り行為である。配偶者のある側は もちろんのこと ない側も 裏切り行為をさせていることによって 間接的にせよ 裏切り行為である。配偶者として 不倫をこうむった側は これをゆるせば 同じほどに 裏切り行為をしていることになる。自分も信用するに足る人物ではないから ゆるすということになり 信用してもらわなくてもよいと宣言していることである。
なお ちいさな事項の整理

ちなみに さらに 前提事項の整理になるのだが ユダがイエスに向かって 《〔裏切り行為をするというのは〕 先生、まさかわたしのことでは》と尋ねたという。そしてそれに応えて イエスは 《それはあなたの言ったことだ》と言ったという。
そもそも たとえ イエスの教えを正しく理解しているのが ユダただ一人であったとしても こんな芝居を なぜ しなければならなかったのか このことも気になる。こんな見えすいた――つまり あとになって その正しい教えのことが皆にわかったとき  なぜ こんな芝居をしたのかと とうぜん問われるはずなのだから そんな見え透いた――芝居をしなければならないほどの 教えなのだろうかと問わなければならない。
ユダの福音書は 《一週間の対話で 秘密の啓示》が与えられたと言っているそうだが だとすると この啓示の内容は けっきょく イエスの死と復活のあとも 人びと一般には 知らせられないほどのものだったということであろうか。
そんなことなら いったいイエスは なんのためにこの世に来たのかと問い返さなければならないが ユダ派のキリスト者は その点 どのように答えるであろうか。

さて 本論に そしてその前にもう少しユダ派について

さて 本論である。イエスとユダとの間に いったいどんなやり取りがあったのか これが焦点だと言ったが ここでは 別の角度から ユダの内実を明らかにしてみたい。
そしてその前にもう少しユダ派について議論しておくほうが よい。
ユダが ただ一人イエスの教えを理解することができたという見解については あまりにも 孤立している。この点をはっきりさせておくべきであろう。
ユダがあたかも後継者であるとするなら それでは イエスの十字架上の死とその後の出来事のあと そのユダの見解を奉じる者たちは どのような主張を どの程度 おこなったのか はっきりしない。福音書が完成していない前から 迫害をうけてしまって どうしようもなかったとは言えない。
ちなみに ユダ自身は すでに すぐに なくなっている。マタイによれば 次のごとくである。 

そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、

わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。

と言った。しかし彼らは、《我々の知ったことではない。お前の問題だ》と言った。
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
マタイによる福音書 27:3−4)

あるいは けっきょく イエスの真の理解者は ただユダその人ひとりのみだから ユダの味方のものたちも――イエスとそしてユダの死後―― まったく 何もわからず 何もできなかったと言おうとしているのだろうか。そうすると とどのつまりは イエスの出生と公生活は 失敗だったと言おうとしていることになる。イエスとユダの再来を ただひたすら待っているという人びとだということである。
要するに われわれは ばかで ユダは賢い。ユダ派は 自分たちも ばかだが ユダその人は賢かったと言い続ける人びとだということである。だから ユダ派の問題は それが迫害の結果という形をとったかも知れないが 内容は まったくしかるべくして少数派なのである。少数派だから いけないとは 誰も言っていない。ばかたちの書いたいまの福音書等の聖書を奉じている人びとを ばかにしているということ それが いちばんいけない。ばかぶりを論証しなければいけない。
もっとも穏やかに 《ユダの福音書》派のこころを捉えるならば キリスト・イエスは ナザレのイエスとしては その教えを伝えるのに失敗した したがって いま一度その到来が待たれると言っていることになる。

イスカリオテのユダのちいさな物語

だから まったく別の角度から かんたんな虚構の物語をえがいて ユダの人となりを あきらかにしてみたい。そういう手法をとりたいと思う。
(つづく→2006-12-05 - caguirofie061205)