caguirofie

哲学いろいろ

#9

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《インタスサノヲ価格》の実際b

いま述べていることは 必ずしも 事態の先取りではない。《はじめ》の動態を たしかに 主観関係的に 洞察しているかたちである。有効な主観の社会関係のなかに 矛盾・対立があるとしたなら これに対するほとんどまだ定義の問題である。主観の有効を 離れたなら 非現実的である。つまり 有効を離れることじたいが 非現実的なのであるから――そこでは 飲めや歌えやの経験現実しかないようになる から―― このいまの議論を非現実的だとみると言っているのでさえなくなり 議論することそのものを 拒否しているのであろう。
現在に立って 過去の経過を整理し また その考察の対象たる《はじめ=出発点》が 動きであるなら 未来の先取りといった性格を これまた 持たないものでもない。
だとしたら 事は 観点をたがえて 次の二つの項目に 分かれて かかわる。一つは 《人間が変えられる》ということ。主観の過程的な関係内容が 変わるのであろうから 総括して述べれば そういうテーマになるはずである。《変えられる》かどうか わかったものではないとしても 議論のテーマは 一つに それである。
もう一つは やはり 権力の移行 これである。余分な議論を ここから導かないためには いま権力にある人びとが 人間として 変わるという第一の項目を ここにあてはめ このような単純で幼稚な説明を これには あたえておこう。
で なおかつ 《人間が変わる》という第一の項目は 或る種 文学・思想的に《原理としてのはじめ》にかかわるであろうから そして 《権力が変わる》という第二の項目は 《経済学にとってのはじめ》そのものではないから ここでは やはりさらに 《出発点》を考察しつづけることになる。《人間・社会・歴史》というはじめの動態を考察することによって 上の二つのテーマにも 見通しとか展望とかとして 言い及ぶことができれば ありがたいわけである。必ずしも それを目指すということではない。


インタスサノヲ価格の実際は スサノヲ価値のなかに アマテラス発展要因を捉えて 全体として 実現させていることである。
おなじく実際問題として スサノヲ価格のなかの どこまでが 基体としてのスサノヲ価値でありかつそのアマテラス発展要因であって どこからが これとは切り離された別個のアマテラス価格(その意味での利潤――これはほとんど無効の利潤である――)なのか これを決めることは むずかしいと思われる。そのような分析は やってやれないことはなくても つねに 事後的であって この事後的な分析結果は 認識したとしてそうしていても 認識のとおりに・だから スサノヲ価値を復活・実現させようとして 次の価格決定の際に 事前的に――しかも 規範的にであるだろう―― はたらかせるということは 容易なことではない。《はじめ総体》を統括するまさに中央計画経済が それを 経験現実とっせるといっても この国家中央政府は 《人間》ではないのである。つまり それでは ただちに・また普通に 主観関係の二角協働の過程の実現には ならないであろう。もちろん それは この実現を目的として目指すための過渡的な一段階だという説明はできるから――といっても 資本主義国家も そのような説明を 言わないわけではなく―― したがって まさに自由なわけである。
議論を投げやりにしないとして こう考えるなら 問題は 今度は スサノヲ価格とかアマテラス価格とかという概念による考察では らちが開かないのであって 別の概念を導入する必要がある。それは 価格決定に際して 基体スサノヲ価値(主観の判断がおよぶ範囲の価格部分)から 単独分離する要素を さらに主観が どう価値判断しているか また この判断を実行するときの その決定の仕方にかんしてのものである。スサノヲ要素またしたがってアマテラス要素を 依然として 前提したかたちになるが これまでは分析概念として用いたのであって この分析が経験現実と相応しているとする限りで 今度は わざわざ分析説明するのではなく じっさいに主観に属する要素として・つまり経験的な判断行為の要因として 用いるのである。
あるいは 言いかえると 価格の分析から導いてきた概念としてではなく たとえいま 価格〔の構成内容〕とは何ら関係がないものだとしても 一般に主観の判断行為には その価値充足に際して スサノヲ要素・アマテラス要素があるのではないかと考えてみて 再出発するというものである。
つまり こうである。まずはじめに 依然として スサノヲとアマテラスの両要素を 価格内容のほうに引っ掛けて 説明しようとおもえば これらの架空の概念をもって 次のように言うことができる。現在において たしかに 単独分立するアマテラス価格は 存在すると考えられるとき(いわゆる搾取があるということだが)――したがって たとえば 労働の機会にあづかれない失業者が 発生してくる または 搾取がない場合でも・つまり失業者がいない場合でも 価格の主観個別的な決定などが 言うならば不自由となってくると考えられるとき―― この単独分立するアマテラス価格にも それでも スサノヲ基体価値にもとづく発展要因が 大きくインタスサノヲ価格として 存在しているであろうから はじめに 単独分立させるか否か その価値判断の仕方と仕組みとに 問題は 見出される。
別個に 価格の要素を 単独分立させないならば 総じて 二角協働関係のスサノヲ基体的な第三角価値 これの創造=享受の過程に 人と社会は あるはずである。計画経済においては アマテラス価格要素を単独分立させない・またそもそも認めないというその仕方と仕組みを 国家がやるのでなければ 言いかえると 国家なら国家という政治経済学主体は ただ 交通整理するだけであるのならば 《はじめ総体》のなかで 矛盾対立が 転倒しないで ふつうの相互対立の動態過程をたどるようになるであろう。
だから ここでの今とろうとしている行き方は アマテラス・スサノヲの両要素を 上のように 価格に内在(?)するものと捉えないで 主観に内在するかのごとき 価値判断の形式(自己に内在するかのごとき仕組み)と捉えて 論じなおそうということである。



主観の価値判断に その基体価値(ごくふつうの需要。たとえば 《健康で文化的な最低限度の生活をいとなむ》ことができる必需価値を そのさらに基体とする)の発展要因を 単独分立させようとするところのもの これは なお抽象的に言って プレ・スサノヲ要因と もっぱらのアマテラス要因とである。

  • プレ・スサノヲとは 前スサノヲ・スサノヲ以前あるいは 原始心性のごときスサノヲのままという意味を持たせた。そのような主観のはたらきである。

循環論法だと言うなかれ。プレ・スサノヲ要因は むしろ利潤を 価格的にもそして価値的にも持たないものであって しかも スサノヲ基体価値をすら 自己〔の主観〕から切り離してしまうような一種のちからである・もし未開社会があるとしたなら そこでは とうぜん基体価値は存在するのであるが 人びとは これを主観のもとに自覚していないか それともまだ自己という自覚がそもそも希薄であるかといった例が 挙げられる。したがって 自己を自覚した段階の社会の――主観関係の――中にあって もしなお このプレ・スサノヲ要因があるとしたなら 基体スサノヲ価値を やはり自己の主観の範囲外に どういうわけか 見てしまう主観のはたらきである。会社なら会社 国家なら国家から この自分の生活価値をすら――じっさいには 自分が 二角協働関係の中ではたらいているのに―― あたえられると考えている場合である。
世の中には 単純再生産に近い労働があるから 《価格的に》利潤をもたない場合はこれを みとめなければならない。しかし 《価値的に》は スサノヲ価値の創造=享受は この単純再生産のばあいにも その中に アマテラス発展要因(人間的な充実)をともなって おこなわれうる。これに絶望したばあい そこにはたらく主観内の要因は プレ・スサノヲ的なちからである。呪術的な原始心性のことであり または 呪術を脱したあとの自己疎外とよばれる〔主観の〕情況である。
(つづく→2006-12-05 - caguirofie061205)