caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考(つづき・その5)

2006-12-07 - caguirofie061207よりのつづきです。

ユダは裏切ったのかという問い返しから(つづき)
intermezzo

もう一つ 言い残していたこと。
申し訳ないけれど このもう一点のほうを失念してしまった。いま どうしても思い出せない。(困ったことだ。)
いま議論は 次の叙述に来た段階で 前提事項の但し書きを 幕間の話として述べていたところだった。

いや 断じて ユダは ほかのペテロらのような腰抜けの弟子ではなく 信念の人でもあり それどころか イエスによって ただ一人 その真意を理解する者として遇されていたという方向が現われたものと推し測ることができる。この推測は 不自然でも 無理やりのものでもないであろう。

但し書きとしてのもう一点は 思い出すまで 待って 次の議論へすすむこととしよう。

ユダのこころの物語

すぐ上に再掲した叙述は 次の事情にしたがって 推察したものである。

おそらく わたしの感覚では 一同の会した食事の席上 あのように明確に《おまえは裏切り者だ》と指摘されたのなら わたしなら 怯えあがってしまうと思われる。ばれていたのか!と。そして こころが錆びついてしまう。わびしくなって わびるであろう。

ところが ユダは それでも 前々からの計画を実行したのである。

こころが錆びつき わびしくなるのではなく 前々からの信念だか計画だかを 続行した。そのゆえに ユダに味方する人びとが現われたのではないか こういう情況である。そのユダに明かされたイエスの秘義は 必ずしも はっきりしないのだから いまは ユダの《信念の強さと勇敢さ》が讃えられたという恰好である。
自殺したか どうなったか これもわからないが ともかくユダは 立派な人間であった かれを悪く言う理由はないはずだというのが ユダ派の人びとの言い分なのであろう。だから かれの名を体した福音書をもまとめたということになる。
そのおしえ・思想は どうなのか これについて明らかにして欲しいと――秘密主義では らちが開かないから―― あらためて言って ユダのこころの物語にすすもう。

フランス語に  《 コアンスモン coincement 》という言葉がある。ボクシングで コーナー( coin )に追いやり押し込めるときの視像で 理解していたのだが その点は それでいいのか はっきりしない。《身動きできないように 押し込める;弁解の余地のなくなるほど 問い詰める》ことだと思われる。最後の晩餐の席上で ユダは イエスから このような突っ込みを受けたはずである。裏切り者だと指摘されて それを否定することもなく それどころか 《したいことを実行しなさい》と言われて それに振る舞ったのだった。
だから いま議論の問題として かれが 信念の人だったと捉えて 話をすすめてみよう。どうなるか。
問題は 弁解の余地のないほど 非を指摘されて 人は どうするか この点に集中するのではないか。
となると ことは はっきりしている。わびるか 居直るか 極論すれば これらのどちらかである。居直ったことが どうして 勇敢で立派であるのか わからないが 信念の強さだというのなら その信念の中味を吟味してみなければならない。


いま ここまで書いてきて思うのだが けっきょくわたしがこの小論を始めたのは このここでたどり着いた居直り・開き直りという事態について 或る種の具体的な経験をわたし自身が最近持ったことがきっかけになっている。こう悟った。だから この開き直りの問題に行き着いたところで いわば話の種は尽きた。
つまり 追い詰められて 開き直るという事態を わたし自身が いままで必ずしも 実感としてわかっていなかったということのようだ。そのおどろきというか 新発見を契機にして このユダの福音を再考しようと始めたようなのだ。
竜頭蛇尾 尻切れトンボ このような結果となって ごめんなさい。
だから ユダについては ふたつの見方が 可能性としては 残っている。まったくの反逆者となった人物であるというのが ひとつ。このときは 裏切り行為を指摘されても 居直ったということ。これは むしろ 後に残されたユダ派の人びとの問題だとも考えられる。もうひとつは すべて謎の内に ユダは イエスから秘義をおしえられていた。裏切り行為があったとしても すべては その秘義とその秘義のための計画にもとづいて おこなわれたことだというこの見方である。だれかが この秘義を明かしてくれればよい ということになる。
むすびの不備をおわびしつつ。
(おわり)