caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

補遺a

このとき――インタスサノヲ価格の実際のとき―― 規範(道徳)として挙げるなら むさぼるなかれ・盗むなかれが なお 有効であるだろうが これを 経済学的な《はじめ》としているのではない。また しては ならない。
規範をはじめとしていると 価格という指標 これにもとづく所有が 主観を離れてのように 交通整理の第一の主体となる。おかしな言い方だが そうなる。
基体スサノヲ要因の発展のためにと言って 単独分立したアマテラス価格の再生産へ 自己を 鋳型取っていく。客観認識が 主観とされて これは 価格指標(その所有)が 交通整理の中心となる。そして このときは 必ずしも――言ってみればヨーロッパ社会におけるような 個人的なものではないとすると―― 主観関係そのものとしての 価格の再生産のことである。
じっさい ところが この場合でも アマテラス要因=客観関係にもとづいて そういう主観関係をつくるのであるから おおいに精神の所産である。このような二角関係協働における価格は 精神の価格・規範・道徳でありうる。つまり こういった仕組みの中から 人びとは むさぼるな・盗むな〔あるいは 他人に迷惑をかけるな〕といった倫理規範を となえる。
われわれが 《精神の価格》というときには――もし言うとするときには―― 主観関係が開かれていて 自由な幅をもっている。その中で 規範も――主観判断の形式たる基準も―― 有効である。けれども それは 《はじめ》の動態のなかで 生かされていく。《主観の無力の有効》と《客体情況の必然有力》との その限りであくまで 二面的な動態について 精神の価格を持ち 規範をも――そうだというなら――捉えている。つまり《規範》・そのアマテラス客観的な認識が はじめとなると この上の二面性は 別のものとなっている。《必然的な価格関係・価格体系・そこにおける価格的なモノの再生産=所有行為》の一面と そして《道徳としての精神価格》とである。これらがちょうど 《アマテラス要因》と《スサノヲ要因》との構造的な連関・さらには〔こんどは〕同時一体性だと 見なされていく。
実際問題として 汚職・わいろに代表されるような 二角協働関係からの逸脱が 価格決定を あたかも 支配する。むさぼるなかれというアマテラス規範を立てなかったら そうはならなかったであろう。だから 規範を《はじめ》に立てていると じっさい単独分立した価値であっても すでに価格の――精神価格(たとえば 勤勉とか合法性とか)に裏打ちされたと言い張るような――構成要素となっているのならば むさぼりでもなく 盗みでもないという考え方に到りうるのである。
そういう裏と表とが――それらが あたかも《はじめ動態》の ふつうに生じている 二面的な構造をつくりなすと言ってのように―― 世の中=《はじめ》には あって なくならないのだよと 説きあっていく行き方である。だから 繰り返すと 主観の価値充足過程が 基体スサノヲ要因(スサノヲ動態)とそしてそれとは別個になったちょうど道(ないし経験法則)としてのようなアマテラス領域とに 分かれている。分かれていてよいという それは《社会科学》の考え方にある一側面となるであろう。
道徳的に 汚職をなくせとは――そういう言い方では―― 言っていない。主観の価値充足過程を 動態させよと言っている。清くなれと言ったのではない。《はじめ》が現実であるなら すでに全体として 現実であるはずだと言ったのである。規範的な精神が 人を清くしていないと言ったのである。これは 価格決定の問題として 語られうる。特に日本社会において。
勤勉という徳の結果としての今の所有権の規範が とうぜん それは 人が 《はじめ》の中の仕組みとして立てたものなのに 人を 規範といえば規範である《はじめ》から逸脱させている。アマテラス客観価格が その所有権の規範に合致して 形成されているなら 人は 価格の所有に走らざるを得ない。つまり アマテラス価格(貨幣)の獲得競争が 人びとの《はじめ》の主観充足過程となる。
このような所有権という規範にもとづく第二種の《はじめ》の内容(また制度にも到る)を人びとは 人間の疎外とか転倒とか また 物象化であると名づけた。すなわち 労働力を所有し 価値充足過程を所有していく人間――であるのに その人間――が 所有権という規範(法律)のもとで モノを 貨幣=価格的に 所有するなら そしてさらに この規範の精神にもとづいて 二角協働関係をいとなむなら この所有の主体は モノの生産のアマテラス価格的な関係過程という客体じたいに化けるという議論である。
これは 分析的に・反省意識的に その意味で哲学的に 言っているが あたっているはずである。
規範的な精神が 問題(その原因)なのである。
われわれの精神は わづかに 所有を 基本的に自己の主観過程の所有として見ることはあっても モノは わづかに 二角協働関係が所有するものだと見ている。また そこから分配されたあとの個体的な占有・使用のことであると。
このようなわれわれの言う所有主体は じっさいには 物象化していない。出世もしていないと見られることはあってもである。あまつさえ 勤勉ではなく おまえは怠惰であると批難する声を 聞いたとしても。この厚かましい批難をするまでに到るなら その出世人が 物象化しているのであることは 常識に属している。勤勉とアマテラス勤勉つまりガリ勉とは 別である。価格の決定に際して この物象化したアマテラス人が 悪貨(規範精神)が良貨を駆逐してのように 支配の腕を振るっている。
この議論は 補遺として 述べるべきであろう。
良貨も 悪貨の流通のなかで その物象化という罪を背負っているが(ただし かれは 自己を責めない。悪化が 自己を責めるポーズをとる。天使になったというように) 罪を背負っているが――なぜなら 悪貨が 主観充足の過程主体であったのと同じ主体として 良貨も存在し 良貨にとっての《はじめ》は 悪貨にとっての《はじめ》と同じものであったか それとも かれらの《転倒した第二種のはじめ》のやはり同じみなもとであったかであるから けれども―― じっさい 物象化していないであろう。かれらは 現実に アマテラス価格をもとにして物象客体化させたかたちの 価格の決定の場に その立ち場に いないという側面も然ることながら のぼって行って そこにいることも 望まなかったのだとしたなら。
ところが 価格の決定 あるいは広く一般的な社会問題の行政等にかかわる価値判断 これらの場に 消費者運動住民運動などとして かれらは アマテラス人から 参加することを 要請される。これが 民主主義だと――《はじめ》の有効な協働二角関係だと――いう考え方のもとにおいて。いろんな階層・分野の人びとを 価格の決定の場に 参加するよう 集めるならば 転倒した悪化であることに対するミソギが 完了するとの考え方に立って。
わたしは 物象化という客体的な事実は たとい何でもないことだとしても このアマテラス人の規範精神(勤勉・非むさぼりというにしろ 民主主義というにしろ等々の)が 非経済学的な いな 反経済学的な考え方だとかんがえる。それは 価値創造の主体の精神ではなく 価格の再生産・獲得への狂った(転倒した)道徳律だとおもうから。わづかにこの悪貨たちは――なぜなら そうならば明らかに この道徳律は わたしたちの敵である―― そこに たしかに スサノヲ基体的な価値の創造もおこなわれているであろうところの価格の拡大再生産の成果の中から そしてなぜなら まずはじめに それらに対して かれらが 所有権を持っているとうそぶく その成果の中から 福祉という名で 人びとに 第三角価値を 分け与え それの享受にあづからせるというのである。この仕組みの元にある規範精神 これが 価格決定にかかわって われわれの敵だと考える。
(つづく→2006-12-09 - caguirofie061209)