caguirofie

哲学いろいろ

#43

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§6 ローマへ *** ――事業論―― (43)

市民社会》の解放――底流の現実化――は
第一段階として 政治的な解放であると考えられた。
愛欲の解放 つまり
第一の自然的な愛欲(その複岸性)によって 制約されず
さりとて 哲学的な規矩・宗教的な規範によって
――その一岸性の 道徳および法律によって――
規制されることにも 制約されず
あたらしい第二の愛欲の解放を
宗教批判(信教・良心・思想の自由)の実現のために
および
市民的な事業の自由を
経済的にも 実現させるために
政治的な解放が
第一段階であると考えられた。
これは すでに 成っているのである。
単純に 歴史のおしえるとおり
レッセ・フェール・レッセ・パッセという政策によって
生産ないし所有つまり事業の 自由の
政治的な確立(交通整理)。
また これは
経験過程的に 第一段階というのであって
個々の段階を問わず 市民社会の場は はじめから 底流であった。
だが なんなら
事業関係の自由としての 市民社会
いま
国家という類関係論によって
包摂されたながら 警護されて
その自由を 獲得している。
だから いまは
事業論の踏み出しにあたって
段階を 言うべきときではない。
経験的で部分的な段階が
すでに 市民社会視点の全体に立っている。
《あくまで主観の存続の重視方式》である《A》の場合も
《類としての個のはじめの像による種関係へのはたらきかけ方式》である《B》の場合も
それらは ともに 平面的な交錯関係を形成して
世界史的である。
市民的な事業の自由論の
――場は すでに あり――
条件も ととのった。
わざわざ 無限追究論《α》の一元論を
無願判断論《β》の一元論を
叫ばなければならなくなっている情況が
それである。
東洋も西洋もなく 文明は
場として
市民社会の一元的である。
ここにおける多元的な資本関係という
事業の自由論。
敵は これに対する
一元的な類関係論
社会科学の先行論
であるように思われる。
市民社会の自由事業論は
経験的に 国家を必要としたが
この国家またその社会科学先行説は
自分たちが その事業関係の自由を
政治的に 確立してやったのだと考えている。国家という類関係論よ 永遠なれと。


《A》の文明種では
社会がおしなべて無志階層から成るとされることにおいて
《事業の自由》が保証されるときには
その対極をなすごく一部の有志=士大夫階層の 旧来の理念であって
これは いまや 固陋な宗教にまで ふくれあがっている。
旧い考え方によれば
忠君・愛国 運命共同体などと表わされる
儒教的あるいは神道的な倫理という
一個の類関係論であると言うこともできよう。
つまり この類関係論の先行によって
観念的に規定された自由が
事業の自由である。
自由に事業を展開するとき
いたるところに この網とそして罠とが はりめぐらされている。
なぜなら それは
自由な事業家が 一個の類関係論に規定されているというのは
頭の中で類関係倫理をになうとされる《政治的人間が
ただ抽象された人為的につくられた人間にすぎ》ないのに
《感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間》たる
市民社会の成員》を
――過去に 政治的解放をしてやったということを 盾にして――
蔽っている。
あるいは 《現実の人間は 利己的な個人の姿においてはじめて認められ
真の人間は 抽象的な公民(有志階層)においてはじめて認められる》ということが
家庭と事業とにおいて
あるいは 事業関係そのものの中で
分裂している。
《市民(無志)》に対して 《公民》が先行しなければ
事業(仕事)は 自由ではない。
この自由は 奴隷の自由である。
二種の平面の交錯関係は
包摂(支配)・被包摂の関係となっている。
つまり ただし
事業の自由論は 底流である。市民社会の場に立って
種関係たる事業の自由な優位は 踊り出なければいけない。
しかし
海は どうして逃げるのか
ヨルダンは どうして後にしりぞくのか
山は どうして雄羊のように踊るのか。
種関係の平面交錯が
外的な社会階層の 包摂関係でないなら
どうして 踊り出すのか。
国家の再編成――。
公民は 市民の中に 揚げて棄てられる。
《比喩的な精神的人格》たる公民は
内的な階層構造の中に おさめられる。
ここで 種差関係(時間・労働)が 生起しているから。


すなわち
《あらゆる解放は 人間の世界〔自治〕を〔種的な〕諸関係を
人間そのもの(内的な階層構造)へ復帰させることである。
政治的解放は人間を
一方では 市民社会の成員 利己的な独立した個人へ
他方では 公民 精神的人格へ
還元することである(であった)。
現実の個体的な人間が 抽象的な公民を自分のなかに取り戻し
個体的な人間でありながら
その経験的生活 その個人的労働 その個人的な諸関係のなかで
類的存在となったとき(類関係移行論をビルトインしたとき)
つまり人間が かれの〈固有の力 forces propres 〉を 社会的な力として
認識し 組織し
したがって 社会的な力をもはや政治的な力というかたちで自分から分離しないとき
そのとき はじめて 人間的な解放は 
完遂されたことになるのである》。(《ユダヤ人問題に寄せて》ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)


《B》の場合においても
その市民社会の政治的な解放 第一の解放の段階を
同じように ながめてよいと思われる。
《A》の場合との対照として 次のような特徴――。
この経験的な第一の段階で
――実際の政治的な革命によって――
《結局のところ
市民社会の成員としての人間が
本来の人間とみなされ
公民( citoyen )とは区別された人間( homme )とみなされる》ことにおいて
この市民の事業の自由が 政治的に 獲得され享受されるのであるが
ただし この《B》の文明においては
むしろ この事業の自由は
或る政治という他者によって と同時に
自己自身によっても 規定されるところの自由である。
このことの意味は
――まず ひとえに 社会が 有志から成っていると考えられて――
あの二種の平面の交錯関係が そのまま
有志的な市民種関係を形成するのであるが
同時に これが 包摂・被包摂の階級関係となって現われている。
類関係論の規定を受けないゆえに そうであって
これは 有志である市民が 互いに種関係の本来の交錯情況を形成するとともに
反面で その有志が 徳(力・産)の――類関係論的つまり
歴史的な蓄積などの――有無によって
やはり今度は 交錯情況じたいが 分裂をもってくると考えられる。
言いかえると
この徳の有無による情況の分裂は
一方の有徳階層においては みづからの徳ないし産を
類関係論的に=子々孫々に 永続させようとするであろうし
だから おそらく当然 支配的な階級を確立するであろうし
他方の無徳とされた階層は しかし有志である限りにおいて
みづからに欠けた徳ないし産つまりもろもろの力を
獲得しようとして 有徳の支配階級に
一般的に対抗するようになることも おそらく
当然のことであるのだろう。
この《B》の文明種においては
一つに このような政治的分裂
すなわち 力の有無による事業の
無規定的な自由層と 被規定的な自由層への分裂を
揚棄するような
言いかえれば 階級対立を廃棄してしまうための闘争
政治的革命の道が
追究されるという方向が 考えられないでもない。
ただ 政治的解放が 市民社会の現実化の第一の段階であるとするなら
ここでも 事業の自由論は すでに
人間の問題である。
こうして 《A》《B》両文明世界において
新しい事業論は
両者それぞれ 踏み出す角度こそ違っても
一つの同じ方向・方式として 打ち出されなければならないようになっている。
《B》文明では すでに
海が逃げ ヨルダンがうしろに退き
山や小山が踊り出したがゆえの
事業関係論の新しい方式の模索であるように思われる。
類関係論の先行による有志(ヨーロッパ的市民)の
種関係の優位・先行的な平面交錯による市民社会の実現。
徳の有無が 個性的に ふつうの出来事であるなら
徳(力・産)の歴史蓄積的な――その意味での類関係論先行の――
支配・包摂を
つねに 平面現在的な種関係交錯とすること。
徳の有無が ふつうの人間的な出来事であるとするなら
これを 徳の先行説に立たず その後行説に立って
ということは 家庭論を 事業論に先行させて
事業関係論を 平面的な 現在過程的な市民社会の場とすること。
言っている意味は
有徳者階層による包摂ではなく
もし包摂という語を用いるなら
資本多元論なる市民社会による――実際具体的には
各会社の場における――
市民的な事業関係の包摂ということ。
これは 被規定的にであれ 《A》文明社会において
つちかわれているものだ。
この被規定は――国家権力・先行する類関係論・一元的な
社会科学によるこの被規定は――
じつは はじめに 無規定的な(自由な)底流でもあって
ただ この本質的な底流を 国家・有志階層は ふたたび逆流させて
規定してみせたにすぎない。
一方の《A》での 無私市民の会社社会論
他方の《B》での 有志市民の自由事業論
これらが 種関係交錯して
あたらしい事業の自由論が
人間の実現として 自己実現した人間たちによって
志向されていく方向を みることができる。
ここでは 資本一元論は また 国家による資本多元論は
過去である。
密林に道を切り開く第一歩は
こうだと考えられる。
現在の平面的な種関係過程が
つねに すでに
類関係移行であるような。
つねに すでには
新しい地下水の 底流の実現・その過程によるのであって
また別種の類関係論の先行によるのではないような。


内に無私 外に有志 あるいは その逆であるような(どちらでもよい)。
無私の精神は
人間の内にむかって無性格にそのまま
――すなわち 本質としての内的な階層の一つであることとして――
受け継がれてきている。
有私とは まだ自然的な第一の愛欲であった。
――その放射線のような複岸性(きっかけとしては 牽引・反撥の双方を含む)であった。
無私の徳が そんなであって
力ないし産(つまりいろんな意味での生産力)の徳は
相続的な類関係論としての 有徳者による無徳者の包摂・支配 つまり貴族制(つまり aritocracy とは 《最有徳者の支配》)においてではなく
平面的な現在の(各世代ごとの)種関係動態において 展開される。
〔皇帝論が 事業論の一つとして 資本一元論の中に 入ったように
貴族制が 事業関係の一つとして 同じく資本一元論の中に 入った。
前者は 国家という社会形態の中で 外的な社会階層を――有志と無志との階層を――形成し
後者は 同じく または 皇帝論の国家を揚棄して(共和国の中で) 種差関係の世代連続的な固定制度化たる社会階級関係を――すべて有志の中の 有徳(有産)と無徳(無産)との階級関係を――
形成してきた。〕
階級対立的な種関係(ヨーロッパ社会)は
あらたな事業論の基盤たる市民社会に立っている。
階層分裂的な擬似種関係(日本社会)は
事業関係としては 市民社会という底流を
会社社会において 用意している。
階級対立を止揚した階層分裂的な種関係(社会主義社会である)は
市民社会という場に起こるべき新たな事業関係として
資本多元論を 用意している。
あとは 人間の人間への 自己の自己への
復帰である。
この自己到来は
内的な階層構造が 本質として 一つであるが
おのおのの時間=労働の過程として 具体的に 発展・展開されなければならない。
それは ついに 類関係概念にかんするいかなる理論も
基本的に 無力である。
他人も 無力である。
他者は わづかに その人の現実的な種関係の交錯をとおして
むしろ いのりうるのみである。
だから 政治的な解放も 無力である。
種関係の交通整理をおこなうことができるが
これがおこなわれない前でも
人間の自己到来は
あの第二局面において
可能である。
自由な事業論は これらの人びとの 交わりであり
それは 場としての市民社会の実現過程にほかならない。
これらの前に
《A》アジア文明の中の資本主義社会たる日本では
市民の無志階層的な種関係平面の中から
公民の類関係論先行的な有志階層が分立し
明らかに 市民社会
政治的に階層分裂をおこしている。
市民社会が 《市民‐公民》の階層分離連関としてある。それは 時に 眠っている。
《A / B》を問わず 社会主義社会では すでに 類関係論先行的にだが
市民社会の方式たる資本多元論を
同じく政治的な階層分裂の中で 展開している。(していた。)
図式的に言えば これは 公民社会である。
《B》ヨーロッパ的な資本主義社会では
すでに 政治的な階層分裂を揚棄してしまってのように
市民社会の場を掘り起こしたがごとく
種関係の事業論を
類関係の歴史連続的な継承のもとに
その意味で 階級的な分裂の中で
展開している。経済的な階層分裂から成る市民社会
これらの中から――いづれの場合も 事業の自由がないわけでないゆえ――
新しい世界史的な市民社会が すなわち
自由な――種関係の矛盾を容れ この平面種関係の優位のもとに かつ そこに類関係移行論をとらえて 自由な――市民による新しい事業関係が
生起してくると考えられる。
矛盾解決の展開過程が――井戸端会議によるような問答過程が――
すべてにおいてすべてであるような世界自治の新しい段階。
これは いまの第二局面より さらに新しい 第三の局面であるだろうか。
この点は 第一章《豹変》で保留しておいた。
わかっていることは 法が法である有効な法(また 行動)が 人の自由意志によって無効となりえない第二局面の
実現であることである。
ただし 無効が 消え去ってしまうのでもないであろうから(いまは こう言うべきであろう)
第二局面の 実質的な再出発とでも言うべきであろうか。
第二局面の これまでの二千年が まだ 無効な法の実効性を容れて
事業論として 実質的ではなかったとするなら
そして これを 第二局面の前史とするなら
実質的な自由事業関係の市民社会
その後史である。
前史の母斑をつけていると考えられるとき
そのいまは
局面として 第二のそれであると言うべきであろう。
市民社会という場は 第一の局面のときから つづいてきたのである。
第二局面の後史は 底流たる市民社会の 歴史的な実現が 土台である。
第三の新しい局面であるかどうかは
われわれ有限者の 無限判断と無限追究の過程で
知られるべきものは 知られるべくして 知られていくであろう。
前史から後史へが 今の焦点である。
《前史から後史へ》。


われわれは まだ その処方箋を 書いてはいない。
また まだ 持ってはいないし ここでは それとして 追究しない。
だが この新しい方式による道の切り開きに際して
今度は 社会科学にすすむべきである。
処方箋は 書かない(まだ 考えていない)から 政策論ではなく
はじめの基礎的な理論へである。
われわれは 新しい理論を打ち出せるかどうか わからない。
もしとしては 文学論に立った事業論が 新しい概念として存在しうるかも知れない。
ともあれ これまでの議論を
社会科学的な基礎理論としての事業論として まとめ あたらしく進みうるなら
これを 以下に 模索してみようと思うのである。
従来の社会現実に沿って言うならば
企業種関係論であり――または 企業論と会社論との種関係ないし混在であり――
新しい方向としてみるならば
社会科学とは言うのであるけれども
文学論的な個体の事業論に立って
その事業関係かつ過程を
普遍的に(だから 必ずしも客観的でなく 主観の事業論を客観的に そして 普遍的に)
理論づけておこうとすることである。
なぜなら あたらしい 社会科学は――わたしの憶測では――
多元的な資本論に立とうとするから
多元すなわち多種の主観の自由な事業論を
その分析が必要なかぎりで 客観的に分別しておこうとすることである。
わかりやすく言うと 文学論的な経済科学というほどの意味内容であると思われる。
《前史から後史へ》の事業論の転換・発展そして展開過程を
――それはまた 有効性の基準としてのように――
議論の土台にすえているということ
これが 一つの鍵であるように思われる。
このあと後半で これの着手に――。

   ***
(つづく→2006-06-22 - caguirofie060622)