しるし・ことば・記号
現在思想のためににおける言説を読んで。
<記号>とは何か?――記号の存在論の問い(2006-03-22 id:namdoog)
人びとは 見よ。アウグスティヌスの言葉は 何と古臭いことか そして いまだになお新しいことかを。
こういうわけで(省略)キリスト教的な自由は 有益なしるしの下に服していたか いわばしるしの近くにいた人人を解放した。
彼らが服従していたしるしを解釈することによって しるしが本来指し示そうとした指示対象へと彼らをたかめ 解放したのである。この人々の中から聖なるイスラエル人の教会が生まれた。
しかしキリスト教的自由は無益なしるしの下にいた人々を このようなしるしの下での単に奴隷的な労働から〔解放した〕だけでなく すべてのしるしそのものを無意義にし とり除いた。その結果 聖書がしばしばそして適切にも姦淫と呼んでいる多くの偶像の神々による腐敗から 唯一の神礼拝へと諸民族を転向させることになった。それはもはや有益なしるしの下に隷属するためでなく 彼らの精神をしるしの霊的な理解へと鍛えるためであった。
(アウグスティヌス:アウグスティヌス著作集 (第6巻) キリスト教の教え第三巻・第八章〈しるしよりの解放〉)
このキリスト教的自由が どうしてその後 軛になったかをも。軛〔《キッチュ》*1〕が 現代にまでなぜ尾を引いているのか。
ルネサンスの古典復興も人間讃歌も さまざまなかたちの偶像崇拝(たとえば 人間としての武勇や雄弁の崇拝)から解放され そのさらに高みにあるものを尋究する道に起こった運動ではないのか。天文学も その解放された世界の秩序・高みにあるものの摂理を探求する道ではなかったのか。
解放を好まないのだろうか。隷属を嫌わないのだろうか。
- 次の指摘に触れて 以上の声を挙げた。
・・・記号は記号機能の所産にすぎない。この世界に「記号」という名の特殊な事物の集合がある、という記号の客観主義=実在論は誤りである。
・・・
記号に関してリアルなのは記号機能であって記号ではない。・・・
《現在思想のために》060322
だからしるしというものはある事柄を意味表示するために定められたものであるが そういう有益に使用するために定められたしるしを そのもの自体として受け取るとしたらどうか。あなたがこうしたしるしを それが意味表示する事柄に関係づけ しるしを拝むことに縛りつけたとしたら 奴隷的で肉的な重荷と冠り物から依然として解放されていない。
(アウグスティヌス:アウグスティヌス著作集 (第6巻) キリスト教の教え 3・7)
- 同じ日(主題)の結びの段落は 理解が行き届かない。
話を要約したい。グッドマンの<指示>の概念は記号が別の事物への指向的かかわり(aboutness)をもつという作用の総称ではない。こうした解釈が世に出回っているが、誤りである。グッドマンの<指示>はまさにこの種の記号論的偏見を否定しているのである。
すなわち、指示とはあらゆる種類の記号化、あらゆる場合の表すことを包含する、根元的な語
なのである。
(同上:id:namdoog)
最後の定義がよく分からない。わかるために どう質問してよいかも分からない。
- 言語記号の恣意性はただしいか。(小論) - caguirofie20040921
世界とヴァージョン(2006-03-23id:namdoog)
そもそも、ヴァージョンとは<世界そのものに匹敵する>という存在論的資格がそなわる(複合的で統合された)記号系のことである。・・・
世界とはヴァージョンの可能的存在性ではない。むしろ潜在性なのである。
2006-03-23id:namdoog
簡略に言って 《日本語なら日本語という特定の言語にかかわるしるしの体系》と《特定の人間たちの社会的な集まり》とが 融合している状態とその動態 これが 現実であるということを言おうとしているのだろうか。それぞれ順に 《ヴァージョン》と《世界》とである。
世界について 次のように言うのは 《ことばによって交通しあう人間関係》のことを言おうとしたのだろうか。
ヴァージョンが成就し世界が世界した(The world has worlded)ときにようやく世界は可視的になるだろう。しかしながら、世界そのものは絶対的に不可視であり続ける――世界が可視的でありうるために。
2006-03-23id:namdoog
《不可視である》と言うときには その世界=人間関係について 《他者とは ついぞ 発見しえない》といったこと あるいは 《愛もしくは信頼関係がこの世に実現不可能である》といった命題を伝えようとしているのだろうか。
*1:キッチュ:2006-05-15 - caguirofie060515