caguirofie

哲学いろいろ

#34

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて―― (34)

ここでは 個別的な主題から入っていきたいと考える。
労働と疎外という主題なのであるが ここから 事業論へ入っていこうと思う。
ちなみに 《所有》という観点は 時間化つまり労働と 不可分である。これについて われわれは すでに基本的に こう結論付けることができる。
労働力は 内的な階層の 種差に大いに関係すると思われるが つまり 或る人は 生産のこれこれの技術・技能にすぐれており 或る人は 協働関係の秩序への組織能力(それは この生産の場でおこなわれる法の有効性を 有効にはたらかせる能力である)に他の人よりすぐれており また或る人は 対内・対外の企業種関係の経営能力を 人一倍よく発揮しうるなどなどというように 労働力は 人の種差に関係すると思われるが
この労働力の所有とは ほかならぬ自己の階層構造の自由な保持(それは 動態)である。これに対して 労働の所有とは 労働の生産物〔価値〕の所有であり その対内的な分配 対外的な配分に かかわるものであろう。
そして いづれの所有についても 家族論が その有効性の基準であり 社会現実の基盤であるだろう。だから わざと簡単に触れるなら 生産の場としての資本の所有は その形態は たとえば社会的所有とか個体的所有という場合も 家庭という一個の種が その主体であるだろう。つまり 独立人格としての個人が 所有権者であることに変わりはないが 有効性の基準として 資本の所有主体は それぞれ一種であるところの家族が それであると考えられる。
家族が 社会現実の基地であるなら これによる主体的な所有関係は 私的・個人的であり 同時に公的・社会的であるように思われる。この点は 一つの超現実の議論なのである。
いづれにしろ 所有という観点から見れば 内的な階層の自由で十全な所有が 基本であるように思われる。これは 原則論であり この抽象的な原則論は いま 議論されるべきであると考える。これが 有効性(場の発展・展開性)の基準だと考えられるから それ以外の所有(所有制)は 無効だと言ってよい。いま ここまで進みうるし ここまで進むべきだと考える。資本一元論の社会も 自由主義経済と言っているのだから。内的な階層構造(要するに 自己自身)の自己による所有は いますぐにでも 出来る。
次のように言うときのマルクスが それである。かれは そこで 革命を起こせとは言っていないし または 自己の階層構造の中に 革命(発展)を起こそうと言っている。事業論として言っているのであるから そう言ったとしても すべてを内的な世界に還元せよということには ならない。事業論は 外的な展開であり この外的な展開を 自己の意志をつうじておこなう内的な自己(階層構造)を 自己は 所有し 見つめている。

〔労働の外化(疎外)〕
第一に 労働が労働者にとって 外的であること・・・。だから労働者は 〔労働の〕外部ではじめて自己のもとにあると感じ そして労働の中では 自己の外にあると感じる。労働していないとき かれは家庭にいるように安らぎ 労働しているとき かれは そうした安らぎをもたない。
経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

中ほどの《労働していないとき・・・》以下の文章(判断)は まちがっている。または かれの時代の社会的な経験現実に即して 述べている。《労働の外部》というのは 実際には 《家庭》であるか あるいは 家庭を基地とした自己が 労働の場以外の社会現実のいろんな場所にいるとき という意味である。
だから 後半の文章は 労働の場・事業論が 資本一元論によって支配されて 家庭を基盤としなくなった 言いかえると 事業論と家庭論とが そのように(つまり 無効に)分離された一つの情況を言っている。
この後半の文章も いまでは 一般的な認識に属するのであるから 前半の文章とともに じつは あたりまえのことである。問題は このあたりまえの経験現実として認識された事柄が 歴史過程的であり つねに 動いているということだ。
それは この文章(判断・認識)を読んで 理解する人の 内的な階層が 認識され ここにおいて かれが 自己を 動態的な存在として 所有することだ。それは 愛欲論・家庭論そして事業論に 通底する《わたし》の歴史にほかならない。このような内的な階層構造は 人間存在として一つの本質であり その限りで 一元的だと言ってよく この一元的な階層構造が 階層(発展)的であり 構造(一元性のほかに複岸性を 契機として容れている)的であるから そのまま 動態であり 人間は それぞれの《わたし》が――つまり 多様な個性の多元的に――生き動く。
これも あたりまえの現実である。階層構造が そのものとして 人間にとって 一つの本質であるゆえに じつは 種差(それぞれの個別的な平面)が 存在している。種差による協働(および愛欲)の二角関係は それぞれ 時間的な第三角をつくって 動き 類関係(信頼関係 また 生産の共同および自治の共同)を成り立たせている。愛欲(所有欲・労働欲を含めよ)の地下水は このあたりまえの現実から その複岸性の実際の行動化をとおして 離れるようにさせるものであるが 同時に この地下水が 第二の局面に立って第二の地下水としてのように このあたりまえの歴史現実に 復帰させる。復帰した地下水は もはや愛欲の複岸性を なくしたと言おうとは思わない。しかし この複岸性――もしくは 事業論としては むしろ支配(むさぼり)のための 一岸性――を 自己の内的な階層構造の自由な発現のために 用いるようになっている。人は そのように向き変えられているであろう。人は 自己に逆らってでも この自己に帰っているであろう。
内的な愛欲の複岸・一岸とか 外的な事業の一岸・複岸とかは 河幅であり縁堤であるから 河の流れである自己は これらをよく用いるようになっている。河の具体的な基地は 家庭である。それ以外のかたちの河の流れは 氾濫(むさぼり)・洪水(むさぼりが支配的に一様となること)であり 無効である。治水の作業は 自治であり経営であり政治である。自己の自治 生産態勢(企業)の経営 社会形態(時に国家)の政治であり ひっくるめて 世界自治である。これの場は 歴史のこのかた 一貫して 変わっていない。
ただし この同一の場に臨む人の内的な一本質(存在)は 階層構造のゆえに 局面転換する。第一の(むさぼりの)局面から 第二の(自由に 能力によって むさぼらない)局面へ発展する。これは 革命である。今は 個人水準で 動態を 内的に 議論しているから 形而上学だと言われても 仕方ない。革命が現実であるなら 仕方あるかも知れない。
マルクスが 次のように述べるとき つまり先ほどの引用文のすぐあとで こう述べるとき それは 経験現実にあたりつつ 形而上学的な問答をくりひろげている。

・・・宗教において 人間的な想像力 人間的な脳髄 人間的な心情の自己活動が 個人から独立して すなわち疎遠な 神的または悪魔的な活動として(すなわち 《超現実》的に――引用者) 個人の上に働きかけるように 労働者の活動(つまり 《事業》)は かれの自己活動ではないのである。労働者の活動は 他人(一元的な資本論)に属しており それは 労働者自身の喪失(内的な階層への無関心という自己喪失)なのである。
経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

愛欲の複岸性 資本の一元論 またこの後者によって引き起こされる愛欲の放射線状の多元性が ここでは 《宗教》と規定されているのである。引用文の中の注釈が それを証明するであろう。
言いかえると 一元的な資本論という事業における種関係は 同一種の平面二角関係から成るそれであり 種差関係ではなく 幻想的な類関係であるから この超現実(ないし無効の現実)の世界は 《宗教》だと考えられる。内的な(労働者自身の)階層構造を 無差別に一様な平面と化し 無化するのであるから 《無神論》〔という宗教〕と言ってもよく また 一元的な資本論(利益という一元的な価値)という神の信仰だと言ってもよい。一元的で 同一種の一様な価値というのは 貨幣的な価値のことである。
ただし もはや第二の局面にあって 第一の局面――ましてや それ以前の原始社会――へは戻りえないから この無効を 法権力によって 実効性あるものにしようと はたらく。

  • 第二の局面では むさぼりにかかわる人も このむさぼりが 合法的なものでなければいけないと考えている。

それには 宗教が 都合よろしい。また 現実の有効な内的な階層も 超現実の契機を持たないわけではない。
もっとも 《労働者の活動は――つまり 《事業》は―― 〔あくまで 自己ないしその家族に属しているのであって〕 他人に属してお》るわけではない。それは 《労働者自身の喪失》という資本論の世界へ われわれが表面的に(=旧《文明》として)適応し その限りでの問答過程を たどっているにすぎない。それは したがって 労働者=孤独(非孤独)じしんにとっての《喪失》ではなく かれの超現実の世界(宗教)における自己喪失の 反映である。その意味での外化・疎外である。このように論じることは このような形而上学が すでにそこで 現実的であり その有効性を物語っていることでなければならない。事実 そうであって この自己の内的な問答過程の外のところでは すべて無効である。つまり まったくの孤独である。孤独には 宗教が もってこいなのである。
かくて 資本一元論の世界では 労働者つまりすべての市民には 神がいる。第一の局面へ帰ったかのようである。無効な法理論(むさぼり)をおこないつつ この神(一元的な資本価値――概念として やはり目に見えないゆえ 神である――)のもとに それを 有効な法であるとする。経験現実に是が非でも実効性を有するようにさせることが ここでの法であり 内的階層の有効であると信じるようになる。ここでは 転倒が――物象化が――おこなわれている。
われわれは 片や社会科学の必要性を 承知しながらも ここでは 内的に問答を展開していく。
同じくマルクスに沿うならば・・・
(つづく→2006-06-13 - caguirofie060613)