caguirofie

哲学いろいろ

#25

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論――

ここで テオドリックは依然として空位期間にあったと われわれは述べたが もっとも かれが その同胞たちすなわちゴート種族の内にあって 必ずしも空位期間(つまり 時間の発進の以前)であったのではなく かれらの孤独も また 孤独であるのではなかった。テオドリックらは 定住をふたたび獲ち得て これを拠点として かれらの共同体の内にあっては 日常のごくふつうの生産活動をいとなんでいる。
それは すなわち ゴートの《現実》としての時間(つまり《社会》)は 神の覚えめでたく 着実に流れていたと言えるのである。(言おうと思う。)言いかえれば ゴート人一人ひとりの それぞれの《家族》は テオドリックのそれを含めて 《現実》において 窪地であって窪地ではなかった――孤独であって孤独ではなかった――と言うことができる。
しかしそれでは テオドリックの彷徨という空間は その種族共同体の外に対する意味で 何によって そうならざるを得なかったのであろうか。
ここで一度 整理してみるならば まずわれわれは われわれの現実存在を 孤独であって孤独ではない《孤独関係》と規定した。そこで この孤独の内的な世界とは その基軸には たとえば地下水としての愛欲があり この愛欲が――複岸性にしろ 一元性にしろ――その何らかの形式を持つのは 《家族》ないしその《三角関係》においてであるとした。そしてこのような内的な世界をもって 孤独は 外の世界に向けて それぞれの事業を展開する。すなわち 《現実》である。
この現実は 内的な孤独(非孤独)としての《超現実》と 互いに通底性もしくは相克性を持っている。あるいは言いかえれば 現実および超現実とも それぞれの内において 孤独の核とも言うべきやはり《孤独》(つまり 独立主体性としての 存在)とそれぞれ向かいあって いわば問答をくりひろげる。この問答の内容が かんたんに言えば 事業および愛欲の それぞれ 複岸性(多元論)と一元性との 対立・敵対・発展の関係を 意味することになるはずである。この《場》が 世界(自己)自治の局面であり この局面には 歴史的に 第一から第二への局面転換が 問題解決の展開過程の問題である。

  • 第一の局面では まだ 不法が法としてみなされることが起こる。第二の局面では 法が法である。ただし それも 一般には 建て前であるのだから 第二の局面も 通俗的に言って その自己の内に 第一の局面を 含んでいる。

局面展開が 上の問答――自己問答のようなもの――の一般的な内容である。すでに 第二の局面にある人も 独自の問題展開をもつであろう。簡単に言うと 大いなる孤独として 《現実》を展開していくその生活である。《家族》論は ここに かかわっている。この家族論の現実は すでに 社会の――社会の全体では 家族論そのままが通用するとは思われないが それでも――基地であり 基盤である。
文明とは つきあいの形式(その社会全体として 様式)であり 家族論が 基盤であるように思われる。その基軸は 性関係である。性は存在しないところの《現実》存在(つまり ふつうの人間)として 性関係を 切り結ぶ つまりその問題解決の展開過程をもっている。
問題とかその解決とか言うのは 孤独が・また愛欲が 矛盾(つまり 時間過程――時間の遅延・差異――)であるからであり 展開とか過程と言うのも 同じく それによっている。つまり  《現実》は このような動態である。これが 人間の生活である。
かんたんには 現実と超現実との相克過程。超現実というのは 矛盾つまり 時間の遅差( difference )を ただ観念的に――ということは まったく孤独の内に閉じこもって 時間を見出さずに――独善的にとらえ 時間過程に対して無差別・無関心( indifference )となってしまうことである。これは 家族論に よくあらわれる。
つまり この三角関係が おのれの超現実(独善の想像・想定)の中で あの《問答》をまったく欠如させて 展開すること。つまり そこでは 何も 展開しないことである。だから じつは このような無差別・無関心の三角関係つまりそのような家族の中にあること――そこに むしろ 眠っていること――は たとえその成員(つまり己れ)が 《労働》をしていても この労働じたいが 観念的に おこなわれる。すなわち 労働を していないことである。すべてが 夢――超現実――の中で おこなわれる。この事態は 人びとが 必ずしも あの自由な第二局面にないからではなく 第二局面に存在することが 超現実の中でおこなわれるからである。
空位期間――彷徨――は このとき むしろ 外からやって来る。テオドリックは これを むしろこれから解放されているゆえに 自己そのものとして引き受けなければならなかった。それは あの《問答》の具体的な実践である。これをしないとき 人は ほとんど病気などではなく 殆ど気の異常にある。

  • 時間の差異の独善的な無化が その異常である。《気》は 一人ひとり異なっているのに わざわざ 無関心を自己の主義として 気を同じものとする(右へならえする)ところの状態である。

このことは 家族論だけでも理論づけうると思われる。
この文明の中から 皇帝論ないし資本一元論が 出てくる。地下水の 複岸性をも流れさせて 形成する敵対・発展関係としての文明を むしろ外的な事業論においては 愛欲の一元性の規範的な成立として すでに過去の大いなる孤独(キリスト・イエスである)をまつりあげ まつりあげたこれの像のもとに 資本一元論つまり社会の一元的な支配論を 説くつまり 信仰からは逸れた宗教という現実のことである。
宗教者は これを説くというよりは これが すでに 《現実》だと言って 目一杯 自己は《超現実》の世界にある。これは ほとんど狂気の状態である。この文明。――

  • つまり 大いなる孤独として去って行ったイエス・キリストを 個人の信仰としてではなく あたかも 社会共同の信仰としてのように 観念のうちに聖化し 聖化したものを精神的な顔蔽いとしてかぶせる。この聖なる存在が わたしのために犠牲になってくれたのだから いま わたしが 世間のなかで つらいこと・きたないことを行なっていても それは すでに罪ではなく すでに清められていると思い込むようになる仕組みのことである。
  • だから この一様な文明の情況を 少なくとも そのまま見つめ 捉え返すためには 個人としての孤独・愛欲そして家族論が 見直され 重視されるべきだと考えた。 

(つづく→2006-05-31 - caguirofie060531)