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哲学いろいろ

#31

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて―― (31)

ここでは 具体的にテオドリックの動きを 追わない。《国家の問題》《孤独》そして《家族論》を さらに展開させたいと思う。まだ 《事業論》に直接 入らないから バルカン放浪の続編である。


はじめに これまでの議論を 復習してみよう。
《世界自治 saeculum 》の形式には おおきく 二つの《局面 phasis 》があると考えられる。局面とは いづれも 自己の自治の《場 ba = niwa 》であり 《個体》の場は 《二角関係》の《特殊性》としてあり 特殊な場の集まりが 世界である。個別的に言っても その《個別性》の中に《普遍性》を見ることによって全体的に言っても 場は おおきく一度 局面転換すると思われる。《不法を法とする》第一の局面から 《法が法である》第二の局面への 移行のことである。
第一の局面のさらに以前には 《法(たとえば 〈むさぼるな〉)》が知られていないで 《不法(〈むさぼり〉)》が違法としてのそれではなかった原始的な場が 考えられる。これは ここで 捨象している。
第二の局面では 《法が法である》と言っても この法を 哲学的な規矩 ないし 道徳的な掟 あるいは 法律上の規範と それぞれ して このような《規矩・おきて・規範 norma 》を 至上命題と見なして これを守るような形式(小形式)から そうではなく 《能力によって 自由意志によって 不法を犯すことが出来ない》という意味で 《法が法である》ような形式(小形式)が考えられる。
これら第二の局面での 二つの小形式にかんがみるなら 或る種の仕方で 同じこの第二局面が 《不法ないし無効な法形式を容れている》と見うるならば この意味で 第二の局面は 先の第一の局面をも容れている(または 揚げて棄てている)。第二の局面でも 経験現実的に言って 不法ないし無効〔の法形式〕を 排除していない。
第二の局面というわれわれの場は そこに《有効 Wirksamkeit 》と《無効 Unwirksamkeit 》とを混在させてのように それらの矛盾ないし問題の解決へ向けて世界を《展開》させていく過程が それである。ここでも 実際には 不法(違法)が 法(法律)によって 罰せられるのであるから 第一の局面(それは 律法主義・道徳主義である)を 残しているとも言えるし また逆に 法じたいが その現実の形態(具体的な法律ないし これにもとづく実践)において 有効か無効かが 問われる 問われるようになっているという意味で 第一の局面からは 解放されている。簡単に言えば 法と不法とではなく 法の有効か無効かになったのである。
法は 一般に 国家(政府ないし権力)によって 法律として その実効性が 持たされている。ただし 法の有効性は――第二の局面における世界自治の 場の《現実性》は―― 基本的に 国家の視点とかかわりなく たとえば《労働》つまり《問題解決の〈時間〉的な展開過程》において 問われる。外的に 人間の《事業論》であり 内的に《愛欲(所有欲 労働・自治への意欲)論》であり その内外の 共通の基盤は 現実的に《家族論》であると思われる。
事業論は 《国家》とからみあって 《皇帝論(一元的企業)》〔という家族論〕であり 愛欲を基軸として 《資本論》〔という家族論〕である。資本論の中の一元論は また 国家ないし皇帝とからみ合って 《帝国主義論》でありえた。これらは 法とその有効性――つまり第二の局面というわれわれの場――が 労働つまり 内的な愛欲の《時間化》にその基礎をおいているゆえであると思われる。
愛欲の主体は 《孤独 solitude 》――孤独関係ないし非孤独――である。これが 時間過程的に 労働する ないし 自治する。時間論は 《現実 réel 》である。また 愛欲というからには そこに 同じく と言うか 別様に と言うか 《超現実 surréel 》の領域が考えられる。
超現実的な――または 既存の経験現実べったりの――孤独関係は 一般に 愛欲が 恣意的に 放射線状に 放たれ 《複岸性》を持っている。法は 一般に 愛欲の《一元性》を説いている。性関係においても 労働においても 《むさぼるなかれ》が それである。ただし 《むさぼらない》法は 時間固定的(停滞的)な そのような道徳ないし規矩の自己規制の中にではなく 時間過程的な 労働の場における展開としてある。
愛欲の複岸性および一元性は この意味で 孤独の内的な《構造 structure 》である。構造が 時間過程的つまり 第一から第二の局面へ《発展 revolution 》する または 第二の局面においても 互いに混在する有効と無効(あるいは 現実と超現実)の相克する場で これを その解決へ向けて《展開 evolution 》させるものであるというとき それは 内的な《階層 order 》である。第一の局面ないし無効な法現実から 一段と高いところに立ったという意味である。
この階層構造は 愛欲と家族と事業との場に 存在している。内的に愛欲の複岸性と一元性 外的に事業の一元性と多元性とを 見つめている。これら内外の階層構造の関係は 孤独関係であったからには 家族関係として 基本的に社会現実である。家族は 社会現実の基地である。家族において 愛欲は 時間化されており 事業は 結局この家族関係から成る社会に奉仕する。労働――という時間化の要因――は 家族から出発し 家族に帰る。
労働という社会現実の基地である家族は おのおのの階層構造が 社会的に接触し 対立・敵対・均衡そして発展し――非家族としても―― 形成されていく。きっかけとしては 《牽引 tracitif 》ないし《反撥 répulsif 》である。いづれの契機のばあいも 階層構造が――おのれの《平面 plan; siège 》が――互いに 交錯するかたちをとる。
第二の局面に立ってみるとき 互いの 階層構造の関係は 基本要因として 二種の平面の交錯する過程である。この個別的ないし特殊的な平面二角関係は 《普遍性》つまり場の有効性をもつとき 《種関係 Artungswesen 》であり 同時に 潜在的に 《類関係 Gattungswesen 》となっている。問題解決の展開過程そのものであるからである。
《種・類の関係 Gattungswesen 》に立つ家族論を 基盤として 内的に愛欲論 外に事業論を 現実に展開させていくことができる。事業論として 資本の一元論をとっているとき それは 愛欲の複岸性に依拠しているように思われる。一元的な資本のために さまざまな所有欲・購買欲を刺激し ひとりの人を 多元的な愛欲の主体とするように思われるから。ただし 一元的な愛欲論 だからそのような家族論も 資本の多元論をとるように思われる。多元的な愛欲の主体が 多元的な資本論によって 自由に 成立することと 同じく愛欲の複岸性にもとづく(または そのための)資本一元論によって 成立することとは 別であると思われる。後者は むさぼりという不法――愛欲の複岸性を成立させるための資本一元論――にもとづくという意味で 第一の局面にあるか もしくは 無効の法現実であるように思われる。
種関係が 一元的な資本論のもとに 愛欲の多元性を満たして それぞれ労働ないし事業をおこなうとき それは 二種の平面の交錯する情況(内的には人の階層構造)を 成立させないようになり したがって それは 種関係・類関係では ないように思われる。第二の局面にあって 法的には 実効性があるわけであるが この法の有効は 愛欲の多元化にあるのではなく それの時間化にあるのだから むしろ愛欲の一元性としての主体の労働(および自治)過程にあるのだから この資本一元論の法的な実効性は それの有効性を用意するものではあっても 無効としてそうなのであるように思われる。資本一元論は 内的な階層構造を 自由に解き放って 互いに交錯させ これを展開するような この意味での 多元的な愛欲の主体化を 無差別に――時間過程に対して 無関心に―― したがって 無効に 成立させるもののように感じられる。内的な階層構造は まさに 皆が それぞれ同一の(同種の)平面となることによって 無効に時間化されているように思われる。
人びとは そのとき 時間化を見出したいと思うなら 結局 愛欲の複岸性――すでに自己が形成しつつある家族ではなく 別様の第二の家族という超現実――に 問い求めようとして そこに逃がれる。現実が 平板化したからである。つまり このただ一つの同種の平面関係の中で なお――すでにある家族とは別様の――何らかの牽引を求めたいと欲する。第一の・現実の家族関係が 平板化したからである。あるいは また 同一種の平面関係の中で 別種の――それは 人の内的な階層構造が 保証する――人種を見出すなら すでに一様になった牽引的な種関係(それは 超現実である)に その別種の人は だから 実効的な現行の法現実に 従っていないと見なすのであるから 当然 反撥を感じ さらにそれだけではなく むしろこの反撥関係を みづからが所属する《今の》法現実の場へ 《発展》させるように動く。人は 反撥を感じたこの別様の人種に 《きみは 発展しなければならない。局面転換せよ》と 説き出す。すべて 無効のうちに。
しかしこの無効の法現実への誘いは すでに 狂気である。《問答 soliloquy; dialogue 》つまり 問題解決の現実的な展開過程(つまり また 労働ないし時間)が ないようになっているからである。資本一元論は 場として社会全体に あまねく一様に行き渡るとき 愛欲の複岸性(不法)を呼び起こしつつ この愛欲の主体を 狂気へ誘う。種関係の歴史過程――したがって 類関係――を そこで 時間的にストップさせるのだから。
おそらく 事業論の資本一元的な支配は この一元的な資本 の再生産 という唯だ一つの目的のために たとえば《馬が合う・合わない――これによって 種関係が成立する――》にかかわりなく つまり このような人間の内的な階層構造の現実に 無関心となり さらにこれを 無差別にあつかって ただ一つの幻想的な種関係へと誘う。このいざないを 時間化――つまり自己の労働 の根幹――であると狂信している。
ここで たとえそれが 同じく 資本一元論にのっとっているとしても 一般に 先発の資本一元論にもとづくいわゆる資本主義の社会に対して これとは異種の 社会主義という社会現実があることは いいことだと思う。社会主義社会という一つの種関係が よいということではない。社会的に二種の平面現実が 存在することがよいことだと思う。わたしたちは このような時代にあると思われた。

  • 現在では 社会主義社会は 可能性も なくなった。
  • 人は 別種の平面との種関係――要するに 異端分子――に対して反撥を感じるというようなことがなくなり 安心したと同時に すべて同一種の平面交錯関係にある社会のなかで――つまり金太郎飴の孤独関係のなかで―― すでに無力感に陥っている。
  • 金太郎飴の一様な孤独平面としての社会にあることは 逆に 愛欲の複岸性が 実際には 事実としてあっても 一元性のかたちへと 収斂していくように感じることもあるかも知れない。早い話が 不倫と言ったところで もはや つまらないと思うようになっていくかも知れない。なにもかも一様な右へならえとしての愛欲論・事業論そしてそれに影響を受けた家族論のもとでは 人は その顔が のっぺらぼうになる。つまらないと感じるならば 正解であろう。つまらないとも感じなくなるかも知れない。

      *** 
(つづく→2006-06-10 - caguirofie060610)