#36
――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504
§4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて―― (36)
以下 すこし脱線して ことばの遊戯を。――
《ゴーイング・コンサーン》という言葉は その継続( going )が 或る目的を達するまでの有限・一過性のものであろうと あるいは いわゆる現代の企業のように半永久的につづけられるとされるものであろうと――厳密には 後者のみを言うらしいが―― 《孤独関係》すなわち《 going concern (階層構造の継続的な関心)》すなわち《事業(仕事)》が 継続しておこなわれるということ 言いかえれば それが あくまで《時間化》されるということが 重要であると思われる。そしてここでは 《 concern 》に代えて 《 interest 》という言葉を取り上げて 若干その点について触れてみようと思う。
はじめに語源をたどっておくならば
concern Lat. = con( = with ) - cernere( to separate, to distinguish )
と知ることができ そこから 《関係( to relate, to mix )》などの意味が生じてきたものであるらしい。これを われわれの都合のよいように解釈すれば 《相互に( con )差異をみとめあう( cerenere )》すなわち《種差を 共同化・時間化させる孤独関係》といった意味で使われると言えなくない。これは ひとまず措くとして。――
次に interest のほうはと言えば これは 言うまでもなく 同じくラテン語の inter( between )− esse( to be )すなわち《あいだに介在する》といった意味に 語源がある。そこで このように語源だけをとりあげてみれば 両者については それらが ともに 《関係》を表わしていながら 一方は その関係を切り離す何ものかを見ており 他方は その関係の中にあって 互いをつなげる何ものかを 同じく見ているように思われる。ここから 孤独関係が 孤独であって孤独ではないということを導くのは いくらか詭弁に属するが この点を踏まえて さらに いくらか。――
interest すなわち 《関係に介在する何ものか》という点について。――そしてそれが なぜ 《時間(時間化)》と関係があるのかについてである。
たとえばこれは 《利害 / 利益 / 利子》などは どこから生まれてくるのか という問いに代えることから始めてもよいように思われる。このとき まずそれは 種関係というものは 特にそれが 互いに異種の平面の交錯する二角関係であるとき 種子関係となる やがて いまひとつ新しい一角をもうけて われわれの類としての三角関係をなすのだという点に注目できる。注目すれば 或る意味で かんたんに納得のいく議論のようではある。つまり 《利子・利息》ということば自体 子息と言っているからである。
だが しかし このことは 片や生殖への意志と 片や労働への意志とを 大きく人の《愛欲》という概念で それぞれを いっしょくたにしてしまった議論であるかも知れない。
この点を 必ずしも 否定しようとは思わないが それでは 家族論と事業論とは 両者とも 種差をもってこれを展開させて類的三角関係へ移行すべき種関係であるならば 片や愛の第三角としての子ども 片や信頼関係(協働のである)の第三角としての利益や利子を それぞれ同じように 生み出すと考えてよいものだろうか。
言いかえれば――いま 家族論は すでに 再論する必要はないであろうから―― 事業論において われわれは 互いの孤独を その内的な階層構造の 種差的な交錯関係の中に位置づけて これを互いに継続させ ともに生産をおこなっていけば そこに《利潤》という時間の剰余・留保が 生じてくるのを見ると言うべきなのであろうか。同じことだが 一言でいって 事業関係にも それじたいの種関係から 類関係への移行が 存在するのであろうか。
われわれの議論の経緯からいけば 少なくとも消極的に そうであると言うべきもののように思われる。
仮りにいま そうだとして たとえば事業の種関係は その孤独つまり人間の種差だけではなく 家族とはいくらか違って 互いにこの協働関係をつくる二角は それぞれ 所有権(その対象としてのモノ または その所有の主体 つまり 互いに所有権者としての種差)が 異なっているようにも思われる。このとき その所有権ないし所有する生産物を 交換することによって この交換において 《利益》という新しい一角を伴ない 全体として類的である三角関係へ移行するというふうに 言うべきであるのだろうか。
家族論と事業論とは 有効な種関係すなわち類関係において 基本的に同じようであり また その社会的・経済的な意味あいが ちがうもののようにも考えられる。
あるいは 労働力の提供と それへの報酬の供与という二角関係について この場合 逆に言って その関係の中に存在すると思われる第三角としての interest が あくまで種関係としての労働という時間の中に・時間とともに 現出し いわば新しい局面(問題解決)を迎えるがごとく われわれの類としての関係へ 移行していくと言っていいのだろうか。
なにか違うように思われるし また逆に その違うと思われる社会現実は むしろ無効の実効性にすぎないものだとも考えられる。
この点にかんして 一つの立ち場は たとえば前章でみたように マルクス・アウレリウスなら 確固とした哲学的な規矩によってとらえてのように たとえば この利潤などの概念も 労働じたいの質と量 生産物=商品の価値などなどといった規矩(概念定義)の幾何学的な関係およびその体系 の中から 述べきたるというものであるかも知れない。事業論ないし企業論が 一般的な意味で 資本論であると考え この資本を モノつまりモノの価値 の社会的な体系とその動態として捉え つまりいわゆる社会科学として 論議されるという一つの立ち場である。
われわれは これを採らないか もしくは あとにまわしている。あとというのは 時間的なあとではなく――ただし 議論の順序としては やはりあとだが にもかかわらず―― 原理的なはじめという意味で 第一次的に 家族論を そしてこれに立った事業論を 考察し 第二次的に 社会科学をもって来ようということであった。立ち場としては これは 成立すると考え その意味で 彷徨しつつも 社会科学的な課題をも 明らかにし これをあとに(第二次的に) 要請しつつ進もうとしている。
しかし 事業論は 家族論と どこか ちがうのか。もはや ただちに社会科学に移らなければならないのか。
- ただし 明らかなことは 規矩・おきて・道徳による行き方を われわれの基本的な立ち場とするわけではなかった。これは 明確である。
わたしは この点にかんして むしろ ずるいやり方で 解答を保留しようと思う。つまり これらに対する回答は いづれ 得られるであろう・明確な解答が得られるような時が いづれ来るかも知れないと述べることで満足し 逃げようと思う。
そこで はじめに言葉の遊戯だとことわったから これでよいと言うわけには行かないものでもあるゆえ なおも少し展開できればとの願いは 次のようである。
創出された互いの生産物が 交換されたとする。この生産物というのは 一方が その価値をあらわす貨幣であることが 一般である。このとき 交換の値は 貨幣価値的に 一つの価額である。ところが 労働行為の成果の貨幣数量的な評価は 特に実際の交換の場で 一個つまり互いにとって等価であっても その背後で おのおのの労働力には種差があると思われる。労働力は 人の内的な階層構造(その行為能力)の現われであるから 階層(孤独)の種差に応じて 差異が生じていると思われる。言いかえると 一個の交換値をめぐって ――もちろん この成立した交換を 元に戻せということではなく―― 一方の人にも 他方の人にも それぞれ異なった乖離が 背後に 生じているはずである。
このことは 人のおこなう労働は 貨幣的な価値によってする幾何学的に一義的な評価が すべてではないという当たり前のことでもあるのだが 言うところの意味は そこにはない。
人の内的な階層構造が 労働力として現われたもの ここには 人おのおの種差が存在するであろうから この限りで 実際に成立した或る交換をめぐって〔も〕 一つの交換値に対するおのおの主観的な評価は それぞれ 或る種の乖離をもっている。この乖離(交換の双方にとって 二つの乖離がある)は 人間の種差にかかわっているとするならば それとして まず 確認すべきである。
つまり 種関係は 二角(二人の事業主体)のあいだの種差であるが 交換という種関係では 一個の交換値をめぐって おのおのが持つ主観的な乖離によって 成り立っている。但し 一般的な種差も 交換における双方の乖離から成る具体的な種差も むろんここで なお主観的にしろ これらを 数量的にあるいは貨幣価値的に 評定しようということではない。
従って このように おのれの種(存在)と 創出されたものの交換の値とのあいだの乖離の存在は そのまま これまで述べたような異なる二種の平面の交錯であり また 包摂・被包摂の関係でもあるのだが それは つまり通俗的に言うとすれば 交換という二角関係において 相互に種の差(ないし乖離)が存在することによって つねに 一方に損 他方に得が 生じるということになると言えるであろう。両方が 損または得 という場合も考えられるかも知れないが 《むさぼり》の皆無を前提しないとすれば まず損と得とであると考えておく。
しかるに ここで 家族論においては この損ないし得という乖離は 存在しないと思われる。また 乖離が 存在すると考えられても それは 種差ではないと思われる。それに対して 事業論では それが モノとしての資本論としても むしろ必要的・必然的に 成り立つと見られるゆえと言ってのようにそこでの二種の異なる平面の交錯する種関係は むしろこれが 単純に言って 類へと移行されようとするときには つねに《そのあいだに介在する何ものか》すなわち 正・負の利潤 interest が 具体的に生じ来るものと考えられるのである。
言いかえると この事業論における その象徴的な事例としての交換においての種差は 貨幣数値的な評価をめぐっての主観的な乖離でありつつ この主観的という内容には やはり現実と超現実との関係の一体となったところに生じるものや また むさぼりうる複岸性と一元性との過程的な綜合としてのものやが 存在しているのであるから これは 個性的・個別的な階層構造の問題である。
ことの意味は 労働が 愛欲の時間化・現実化であると言ったとき この類関係への移行と促す要因たる時間とは 損得の生じる交換を通じて 現われると言うか この交換を継続していくことが 時間過程であることになる。
何のことはないと見られるかも知れないし また この意味で――この前提に立って―― あとは 社会科学による・交換に対する社会公共的な交通整理が 要請されるとも言うことができよう。
或る種のことばの遊戯として述べたが これに とどまらざるを得ないであろうという意味で 確認してみた。
《ゴーイング・コンサーン》における《インタレスト》の 分配(さまざまな交換における 損得の 解決への展開)と その再分配(社会全体的な配分)とは 社会科学の問題である。
もし ここで議論している 家族論を主体として事業論が人間どうしの個人的な水準におけるその意味での種の関係に属し これに対する意味での 上の社会科学が 全体的な水準での類の関係に属しているというふうに 分けてみた場合 社会科学が あとから来る第二次的なものというなら それは この限りで 類関係に対する種関係の優位という視点が 打ち出されてくるかも知れない。
種関係の現在の平面(交錯する平面)が すでに潜在的に垂直的=歴史的な類の三角関係であると言ってきたのであるから おかしなことを言うと言われるかも知れない。だが この点は 以上から導き出される問題点として したがって われわれの次の課題として いま 原則論を経験=実践的な課題へと移し変えて 《類関係に対する種関係の優位》ということを 言おうと思う。その単純な意味は 一方で 今の種的二角関係が 将来すべき類的三角関係を宿すが 他方で この現在の種関係を 将来のと言うか推測によってみちびかれるところの・現在においてはむしろ規範たる類関係(たとえば 《人は 類としての存在たるべし》)によって 必ずしも 自己規制すべきではないという論点である。
この意味で われわれは なお 社会科学に移らずに 文学として議論しつづけるであろう。《永遠の(つまり類関係としての)現在》――つまりそういうものとしての種関係のことだが――ということわざがあるけれども これが 《現在の永遠》に陥る危険を 回避しつつ 今の種関係的な現実の展開を 焦点として 論議をつごうと思う。
- 《現在の永遠》とは 種差への無関心による一様な同一性の平面化と言える。
社会科学は これに対して むしろ自由である。本質的に 責めがない。社会科学者には むろん責めがある。そういう階層構造的な 内なるというほどに 外部事業論的な問答の過程であると思われる。この場から 離れたくない。
(第四章 了)
(つづく→2006-06-15 - caguirofie060615)