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哲学いろいろ

DA VINCI CODE etc.

la fémininité & Augustin

アウグスティヌスも 男女の区別はしている模様である。

しかし 使徒(=パウロ)が 女ではなく男が神の似像である(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 11:7)と言うのは 《創世記》で

神は人間を創られた。神の似像によって人間を創られた。彼らを男と女に創られ そして彼らを祝福された。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)1:27)

と書かれていることに どうして矛盾しないのか 見なければならない。たしかに《創世記》は神の似像によって人間の本性そのものが造られたと語っている。この本性は両性の中に完全に存在しており したがって神の似像について理解すべきとき女を分離していない。聖書は神は人間を神の似像によって創られたと語った後で 《神は 人間を男と女に創られた》と付加する。あるいは別の区別によって 《神は彼らを男と女に創られた》と語る。それでは 使徒をとおして 男は神の似像であるから頭に蔽いを被るのを禁じられ 女は神の似像ではなく したがって頭に蔽いを被るように命じられている(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)11:7-10)と聞くのはどうしてであろうか。
思うに 人間の精神の本性について取り扱ったときすでに語ったことであるが 次の理由による。
女はその男と共に人間のこの実体全体が一つの似像となるように神の似像である。しかし女は彼女自身だけの場合 男の助け手として考えられるから 神の似像ではない。ところが男は自分自身だけで 女と結合して一つのものになったときと同じように 十全かつ完全な神の似像である。これは私たちが人間の精神の本性について語ったことである。
それは全体として真理を観想するゆえに神の似像である。また その精神から或るものが配分され 或る志向によって時間的な事物の行為に向けられるときも 観られた真理に訊ねるあの精神の部分において やはり神の似像である。しかし より低いものを為すように向けられる その部分においては神の似像ではない。
精神は永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は頭に蔽いを被ってはならないのである。
しかし物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは危険である。だから それは頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を持たなければならない。聖なる天使には清らかにして敬虔な意味表示がふさわしいからである。
神は時間によって見たまうのではない。また 或るものが時間的・暫定的に生じるとき 動物や人間の内的な感覚 また天使たちの感覚さえも影響されるのであるが そのように神の直視と知においては新しいものが生起するのではない。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 第十二巻第七章〔10〕pp.328−329)

わたくしは このことがら(男と女)について あまり真剣に考えたことがない。啓示も受けていない。

・・・だから 私たちと共に恵みの共同相続人であるとき 誰が女をこの共同から遠ざけるであろうか。
アウグスティヌス:ibid. vol.12 ch.7〔12〕=承前)

という表現にも あたかも優位に立つ男として語っている姿がある。

また同じ使徒は他の箇所で言う。

キリストにおいてバプテスマされたあなたがたはみなキリストを着ているのである。もはや・・・男も女もない。・・・
パウロガラテア人への手紙 3:26−28)

それでは信仰篤き婦人は身体の性を失ったのであろうか。そうではない。彼らは神の似像――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない――によって 言い換えるとその精神の霊において人間が造られたのである。
それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。
女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性のあの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神がその部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は留まらない。この精神は男のみならず女も持つことは明らかである。
アウグスティヌス:ibid.=承前)

《時間的なものを管理するために下に向けられる理性のあの部分》は 《理性の》である。だが 女は 経験的な存在として・つまり自然の身体として 男と異なっているというふうに言っているようである。
いかに捉えるべきであろうか。

極論の一例

これ以上乱暴な議論はないという議論をしてみよう。
現代において 人はすでに 男も女も――わたくしの信仰の流儀で表現すれば――キリストを着ているというのに この性関係の問題があとを絶たないのは なぜか。
答えは 二つの極論に分かれる。
(1)アウグスティヌスが間違っている。したがって 女がその身体において 男と異なっているという見方が 社会的に有力である限り 問題は解決しないという回答。
(要するに 男性優位の思想とその歴史の残滓が消えてなくなるまで 無理という見方。)
(2)逆のばあいの回答。男が頭に蔽いを被ってはならないのに被っており 女は頭に蔽いを被るべきなのに被らなくなったゆえだ。


けれども考えてみれば どちらも 両性の平等をうたっているのだが。

トマスによる福音書》論の補遺(bragelone)

谷泰(TANI Yutaka;1934〜 文化人類学者)の議論(060525)でこの聖書外典も 決して 女性を貶めているわけではないというくだりが さらに 続いていたのを見出した。

トマスによる福音書》の他の箇所には

彼ら(弟子たち)は彼(イエス)にいった。
――わたしたちが小さければ御国に入れるのでしょうか。
エスが彼らにいった。
――あなたがたが ふたつのものをひとつのものにして男性を男性でないように 女性を女性〔でないよう〕にするならば・・・そのときにあなたがたは〔御国〕に入るであろう。
(語録番号22)

という文言がある。ここで御国に入る条件 つまり救われる条件として たんに女性が男性になることのみが語られてはいない。要は男性と女性とがひとつになり 女性は女性ではなく 男性が男性ではないようになることが重要なのだと語られている。他にも

単独なる者 選ばれた者は幸いである。なぜならあなた方は御国を見出すであろうから。なぜなら あなたがたが そこから〔来て〕いるのなら 再びそこに行くであろうから。
(語録番号49)

という文言もある。これらの文言をあわせて考えると 最初に引用した《トマスによる福音書》の文言の 《どの女も自分を男性にするならば》救われるだろうという主張は どの男も自分を女性にするということをも含めた 相互的合一による救いの過程の一方のみを会話文脈上語ったにすぎない と解す方が妥当だろう。
要するに基本には 男女両性がわかれる以前の単独者の状態 ひとつに合体した状態を理想とする いわゆるグノーシス的思想にもとづいたキリスト論がそこにあり 《トマスによる福音書》は そのような立場に立って編集 創作された外典福音書であると解すべきことになる。
(谷泰:キリスト教とヨーロッパ精神――とりわけ女性的性をめぐって――:民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型*1 p.282)

  • 女性蔑視の思想と解釈したのは まちがいであった。
  • ちなみに キリストを着るための条件は そんなものは何もない つまり無条件だというのが 〔アウグスティヌスを自分流に解釈した〕わたくしの立ち場である。
  • もしその条件が 《男女の相互的合一》だというならば それよりは 《神の栄光たる男を女が被ること》という上の男尊女卑の考え方のほうが わたしには感覚的に合っているように思われる。
  • ささやかに合理的な理由をひとつ述べるとすれば おそらく 《男女の相互的合一》といった思想によるならば その時間的行為に 人はただ 流されてしまったままの生活に入るであろうからである。批判を俟ちたい。
  • 上のことは 理論ではない。経験上の注意のようなものである。言いかえると 《男女の相互的合一》を理論にしてもらっては 困るという感覚を持っている。時間的行為そのものを 理論あるいは行為の一般原則としても あまりその効果や妥当性について 判断のしようがないと考える。というような内容を意味している。

*1:民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型・・・なんと親父の蔵書の中にあった。