caguirofie

哲学いろいろ

ツイ関係

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
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 男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。
 だから どの程度まで人間の自然的態度(* 自然児スサノヲの人間語)が人間的(* 品格を重んじるアマテラス人格語 もしくは スサノヲ=アマテラス統合語)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。
マルクス:経済学・哲学草稿  第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム 城塚登訳)
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 ☆ これも 《霊的な婦人の共有》ないし《人間の 自然的・感性的かつ人間的な 社会関係》のことを言っていると見てよいと思います。《感性が人格を形成する核である》とさえ言っているようですよ。



聖書にも 女性蔑視の文章があると しばしば 指摘され批難されている箇所をめぐって アウグスティヌスは 次のように論じています。男の側からの見方が現われていて 擁護しがたいかも知れません。考察を加えていくべき主題だと考えます。
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     男が神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽
    いをかぶってはならない。しかし 女は 男の栄光である。
    (パウロ:コリント前書2:7)

  ・・・男は神の似像であり したがって 女には被るように勧めるその蔽いを 頭から 取り去るように〔使徒パウロは〕語っている・・・。
 精神は 永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は 頭に蔽いを被ってはならないのである。

 しかし 物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは 危険である。だから それは 頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を 持たなければならない。

 ・・・神は 時間によって 見たまうのではない。また 或るものが 時間的・暫定的に生じるとき 動物や人間の内的な感覚 また天使たちの天的な感覚さえも 影響されるのであるが そのように神の直視と知においては 新しいものが 生起するのではない。
 ・・・
 それでは 信仰篤い婦人は 身体の性を失ったのであろうか。
 そうではない。かれら(かのじょら)は 神の似像――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない――によって 言い換えるとその精神の霊において人間が造られたのである。

 それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。

 女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性の(*――理性の である――)あの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神が その部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は 留まらない。この精神は 男のみならず 女も持つことは 明らかである。
 だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。・・・
アウグスティヌス:三位一体論12・7)
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 ☆ 《理性のあの部分》については 直接の解説はありません。《経験的な あるいは むしろ 経済的な ものごとを管理する知恵のはたらき》のようなことでしょうか。
 

共産党宣言』から引きましょう。
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 そして 共産主義者よ 君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう と全ブルジョア階級は いっせいにわれわれに向かって叫ぶ。
 ブルジョアにとっては その妻は単なる生産用具に見える。だから 生産用具は共同に利用させるべきである と聞くと かれらは 当然 共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。
 ここで問題にしているのは 単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ ということにはブルジョアは思いもおよばない。
 何しても 共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわくわがブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は 婦人の共有をあらたにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。

 わがブルジョアは かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても かれらは 自分たちの妻をたがいに誘惑して それを何よりの喜びとしている。

投稿日時 - 2008-11-13 10:02:07
お礼
 ブルジョアの結婚は 実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えうるとすれば せいぜいで 共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代わりに 公認の 公然たる婦人の共有をとり入れようとするという非難ぐらいであろう。いづれにせよ 現在の生産諸関係の廃止とともに この関係から生ずる婦人の共有もまた すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。
(《共産党宣言》第二章 大内兵衛向坂逸郎訳)
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 ☆ この点 エンゲルスがさらに 次のように見通しを述べています。
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 したがって きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。

 だが 何が付け加わるだろうか。それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。

 このような人びとが出てきたばあい 彼らは 今日の人間が彼らのなすべきことだと考えていることなど 意に介さないであろう。彼らは 彼ら自身の実践と それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。
(F.エンゲルス:家族・私有財産・国家の起源  第二章 家族)
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 ☆ たたき台には なりますでしょ?