caguirofie

哲学いろいろ

#20

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (20)

これは ややこしい議論である。・・・


議論を中断したかたちで 角度を変えて論じておこう。
愛欲の複岸性に 基軸を置いた形での孤独関係の中にあるテオドリックでさえ その道を突き進もうとしたところの――その外的な展開としての―― 一元的な企業論すなわち皇帝論と かんれんさせて。――
まずはじめに 現代の一神学者の意見を聞こう。それは アメリカにおける企業社会=文明を 洞察しようとするものであり かれは それを

アメリカの幸福探求の皮肉な点は――と始めている―― アメリカが 人生を《住みやすい》ものにすることで 他のどの国よりも明白に成功しながら 結局最後には それによって人間の運命の小さな不調和をまぬかれたその同じ成果のおかげで より大きな不調和に陥ってしまったという事実にある。このようにしてわれわれは あまりにも単純に人生の意義を見出そうと 人間と自然 人間と社会 人間とその究極の運命との間に 調和を求めて努力したが こうした調和は 一時的には 有効であっても 究極の有効性をもつものではない。
(R.Niebuhr: Religion―― The Irony of American History―― 1952)

と要約しているが これに関して 神学による直観を 次のように著わしている。

何にせよ やるだけの価値のあることで われわれの生涯のうちに達成できるものはない。だからわれわれは 希望によってすくわれなければならない。
真なるもの 美なるもの 善なるもので 現下の歴史的状況の中で 完全に存在意義を有するものはない。だからわれわれは 信念によってすくわれなければならない。
われわれのすることで いくら立派なことであろうとも 独力で達成できるようなものは ない。従ってわれわれは 愛によってすくわれる。
どんな立派な行為でも われわれの味方や敵の立ち場から見れば われわれの立ち場から見たときほどに立派では ない。従ってわれわれは 最終的な愛のかたち つまりゆるしによってすくわれねばならない。
(同上)

《文明》は それじたい――第一章でも述べたとおり―― 歴史上の あるいは 類としてのわれわれの 基本的な一大成果である。従って R.ニーブールのこの論述を われわれの言葉で要約するなら それは 

われわれの《人生に意義を見つけようとする》その努力であり成果である《文明》には 一個の人間としてのわれわれの孤独(非孤独)関係という尺度でそれを見るならば 何度も繰り返すように その孤独の内的な基軸として たとえば愛欲が つねに複岸性を持って(持ったものとして) 経過するということによって その外的な展開としての事業も 文明による・法としての あるいは規矩ないし条理としての 一元性とともに つねにその地下には 複数の縁堤が 錯綜しているということ しかも この錯綜性を 完全には 一元的な合法的水路へ からげて みちびくことは 不自然である。

と考えられる。

もし逆に 条理としての不自然が あるとしたなら 世界自治の《場》の永続性のようなもの ないしその最終保証者のことである。

  • 条理としての不自然 このように表現しなければならないことが 問題をあらわしている。愛欲の一元性か複岸性かでは 文明じたいが 反・文明になっているかも知れないのだ。

これは 性関係の一元性ないし多岸性の問題であると思われる。つまり 先のややこしい議論は やはりこのような前提をもって 構造的にして過程的なそれであろうと思われる。
従って このことの意味は 文明にかんして たとえば文明は 《資本一元論》の仮定一本に とうぜん しぼることは出来ない ということでなければならない。その意味では 《反・文明》の主張は いまに 有効でなければならない。テオドリックの事業論つまり皇帝論――つまり資本一元論――は むしろ 愛欲の複岸性を 自由に 過程的に 解放するものとしては まず愛欲の一元性に立っており(つまり すでに 第二の局面にあり) その外的な展開として まだ 皇帝論であった。内的には むしろ《文明》的であり 外的に 《反・文明》的であった。
現代の文明は 皇帝論が――反・皇帝論の台頭を経て―― 資本一元論となり 《文明》的となると同時に 《反・文明》的となった。われわれの言う反・文明論は これに対する意味で 《反・反文明論》であるはずである。これは 性関係によくあらわれると思われた。
この点から言って テオドリックの企業論すなわち皇帝論は まだ 端緒についたばかりであって しかも その成就の可能性とそして限界とを すでにこの時 同時に孕んでいたろうと見なければならない。
このとき同じく もし見ようと思えば たとえば ローマ帝国という現実――その歴史を ここでは 詳細にしては いないが――は そのような企業論の成就の可能性と限界とを それによって測るべき法(たとえば キリスト教思想)を 普遍的に 打ち立てていた――事実として まずそうである――と かいまみることが出来る。
つまり このような法ないし国家の確立の前と後とにおける皇帝論ないし企業論は むしろその質を異にするのではないだろうか。言いかえると 逆に 国家の問題とは 関係なく 場の自治形式の局面展開(その転換)の前と後 つまり第一と第二とでは 質(法のありかたとして)を異にすると言うべきであるはずだ。
この意味で――局面展開の問題として―― 愛欲論は 事業論と 相即的であって たとえばテオドリックに限らず つねに 歴史としては より大いなる孤独が 出現して 一つには皇帝論 一つには資本一元論 等々と続いて その企業論を展開していくことになるのだと思われる。
そこで ちなみに 企業論のみが――殊に資本一元論のみが――大きく世界(その自治)の主流を占めると見えるような情況においては ――必ずしもそこで なお 皇帝論が 消滅してしまったとは思わないが――孤独関係から成る情況=社会の中に 資本一元論のみを見るか 別の多元論による文明を見るかは 当事者であるわれわれ〔の孤独〕は 内的に 殊に性関係において 一元的・一岸的であるか 複岸性・多元的であるかによって 分かれてくるものと思われる。愛欲の一元論が 資本の多元論を取ると思われるのである。(誰もが 株主といった情況である。地域社会も 象徴的に そのような株式社会であってよい。)これは 文明の問題であると考える。また そこで性関係を 一基軸として さしつかえない。
いづれにしても ――そのすでに限界をも見たわけであるが その――テオドリックという大いなる孤独は 内的な愛欲論を形成しきってのように この後 その外的な展開として――時代的に 皇帝論としてだが―― まず端緒についたことを見た。すでに触れたように 次章では 孤独ないし愛欲の形態(形成態)である《家族》を取り上げ やはりこれと《事業》との関係を中心にして 考察することにしよう。
(第二章おわり。つづく→2006-05-26 - caguirofie060526)