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哲学いろいろ

『悪』とは何ぞや??

【Q:『悪』とは何ぞや??】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13312528.html
質問者:ks5512質問日時:2023/01/15 15:50回答数:10件

No.7
回答者: bragellone 回答日時:2023/01/16 00:05

いろんな捉え方があると思います。

生と死で 善と悪を捉えてみます。

生きることを よしとし 生きないことを あしきことと見なすのだと思います。

 




生きるのにためになることは やはり よいことでしょう。

生きるのをさまたげることは よくないことでしょう。



生きることには 意志が中軸になると思います。意志行為としての思想や行動は 自由に選択するというかたちになっているからです。

とすれば その意志ないし心を――つまり自分の心であれ他人のであれ その心から繰り出す自由な自己表現を――踏みにじること これが いちばんの悪です。

賛同と批判といった対応が ともに生きることとして善であり 無視することあるいは闇の中へ葬り去ることが 悪です。



一般に悪は おのが心を偽るウソから出て来ます。イツハリは ヤマシサ反応の起きることによって知覚されます。人びとに共通だと見て差し支えないと思われます。


この悪の芽としてのウソは 生きている人間――その意味での善なる存在――が ふと心を曲げて落ち入る状態でありその行為です。

 

 

 

 

起源の問題として考えました。

1. 悪とは 善のへそ曲がりです。《生きること》が善です。と想定します。では なぜ善がヘソを曲げるのか?


2. かの園で アダムは 《アダムよ アダム きみはどこにいるのか?》という心の声を聞いた。

3. 《ここにいます》と答えると 《どうして心を曲げたのか?》と訊かれた。

4. 《連れ合いのエワが いざなったからです》。

5. そのエワが 説明するには 《あの誘惑がわたしの気を引いたからです》と言う。



6. 気を惹かれてその思想的内容をよしとしこれを実行しようという意志を起こす。

7. おそらくその時 例のヤマシサ反応が起きたに違いない。エワは――そしてエワのさそいに乗ったときのアダムもその心に――高鳴りの生じるのをはっきりと自覚したに違いない。

8. ひとつには へそ曲がりとは この良心のささやきとも言えるヤマシサ反応にさからうことである。

9. 悪とは このような善のひねくれだとしたからには 良心にさからうイツハリである。ウソをつくことである。


10. それとは別に 同じエワの行動において へそ曲がりのほかに 《誘惑》という要因が見て取れる。

11. へそ曲がりゆえに 誘惑をむしろ自分で想い描いたのか それとも誘惑は 人の心の外から来て心をひねくれさせるものか?

12. 問題は 誘惑と言っても 人間の意志行為〔として表わされた思想ないし行動〕でありそれらが社会的に錯綜して織り成した結果のナラハシである。

13. ならばやはり すべて心のへそ曲がりに行き着く。


14. かくしてここで《生きる》という善とは 《おのれの心にも逆らう自由度を持つ意志自由において生きること》であることが定まった。エワとアダムは これを自覚した。

15. 自然本性としてそなわった心にしたがって生きることが 善と見なされ その善のうちに良心たる心にさからうという自由度――誘惑をみづからがこしらえる自由度――があると。

15-1. 善の余裕が これを為すか。誘惑を想い描く。

15-2. エワは 光が陰のところへ入っていくのを見て 光も曲がる(クリナメン)と思ったところ 誘惑が思い浮かんだ。

16. つまり 心のヘソ曲がりが 善の裏返しのような〔これも善の〕自己表現として――ヘンな自由度となってのごとく――起こり得る。これが このウソ・イツハリが 悪である。

16-1. 良心にさからっても おれたちは生きている・・・とエワとアダムは思ってしまった。

16-2. というよりは コトのあとに 良心とかヤマシサ反応だとか そして善と悪とを知るようになった。

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