caguirofie

哲学いろいろ

人を大量に殺しても、人を大量に救っても、死んだら同じですか? それとも違うと考えます・・・

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1. 推測するしか決められないこと・あるいは推測によっても何も決まらないこと こういったものごとについては それらを包み込むような概念を充ててみて 何とかならんものか処理しようとすることがあります。




2. 死後をふくむ未来については 《予期としての現在》だとして――また 過去は《記憶としての現在》だとして――このような広義の概念たる《現在》をそれらの時間にかぶせることをします。


3. 《永遠の現在》という――意志行為としての――仕組みです。

 


(もっとも けっきょくは《予期》に推測が入っていることに変わりないのですが その推測も現在時において実際に成している意志行為の内にふくまれるという点が のぞむらくは ミソです)。



4. ということは 一生を終えるまでは そのつどの現在時が決め手であり 一瞬一瞬そのつどの意志行為ないし人格存在の全体のあり方で 未来の自己の――よしあしにかんする――評価が決まるという寸法になっています。






5. さて 意志行為のよしあしについては じつは本人がよく分かっています。

6. 何かを想像したり計画したりするとき それがよからぬことの場合には 胸にヤマシサ反応が――必ず・おそらく良心のハタラキによって――起きます。

7. そして この反応にも逆らってその何かを行動に移そうとするなら――さらに胸の高鳴りが増しヤマシサ反応は一段とつのり―― 心は・そして身における神経細胞の自然でふつうのハタラキが―― 横道に逸れます。

7-1. 神経細胞が ヘンなつながりを作ってしまい しかもそれでも何もなかったかのごとく 推移してしまうようです。のちにツケがまわってくるのかどうか。

7-2. 自由意志の自由は――そこには余裕をこいて脇にそれてしまい得る自由度が潜在しているけれども それをふくむ自然本性たる基本の自由は―― とうといものであり ちょっとやそっとで朽ちることのないように めぐみに満ち溢れているらしい。敗者復活が用意されている。しかも何度も。




8. ヨコミチに逸れるよからぬことというのは 基本としてウソ・イツハリです。自然本性たる心にさからっています。


9. さらに具体的で決定的な脱線は――ひとは社会的な存在であるからには―― 自分の心をだけではなくほかのひとの心ないし意志行為を踏みにじることになるウソ・イツハリです。



10. そしてそこに当然ふくまれるのは――つまりウソ・イツハリを為す自由度をも持ったひとの自由意志による行為(意志の表明)を踏みにじる悪しきことにふくまれるのは―― その自由意志の主体であるひとという存在そのものを踏みにじることでしょう。


11. 自分であれ他人であれ ひとの存在を亡き者にすることは 自由意志たる心の――つまり 自己自身の――死です。究極の脱線です。

11-1. 戦争は 国家に主権があるという仮定(前提)で成り立っているものと思います。自己防衛とともに。仮想の現実です。

11-2. 自己防衛・緊急避難は いちおうヤマシサ反応の起きない自由に属し しかも――じつに・それでも――自力救済は みとめられていません。その限りで 戦争は 仮想の現実でしょう。

11-3. 自力救済の禁止は 敵討(かたきうち)や仇討ち(あだうち)を――そこにヤマシサ反応が起こり得るなら――ひとの自由のヨコミチだとみなす考え方でしょうか。



12. ヨコミチに逸れるウソ・イツハリそしてその究極としてのヒトゴロシ これが そのつどの現在時におこなわれようとするなら それによってそのつど未来が決定されるのだと考えます。


13. 自由意志の自由は この脱線を おそらくウソ・イツハリにかんしては 元の軌道に復帰させ得るとも考えるのですが。

13-1. 自由は人間の智慧と能力のことだというよりも 必ずしもそうではなく そのつどのヨコミチたる死の――その後の――克服は 良心の存在とともに めぐみなのかも知れません。死の克服というのなら 生命のチカラなのかも。