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哲学いろいろ

身近な人への愛(隣人愛)とは 互いにその思想を自由に批判しあえることではないか

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1. 自由な相互批判がおこなえるほどに ユヅリアヒも助け合いもが成り立つ。


2. 《われは生まれて来たこととこれまで生きて来たことにおいてすでに神の愛をじゅうぶんに享(う)けた。ゆえにあとの人生はすべてこの神のめぐみをたたえ感謝をあらわすことにあてる。そうしても まだお釣りがくるくらいである》
――と言って〔その意味での・また比喩的な意味をふくむ〕修道院生活を送る道がある

 



3. この神の愛は すでに隣人愛をそこにふくむ。と見られますまいか。タテの愛は ヨコの愛にそのまま通じるのではないか。そういう自然本性としてわれらが《ひと》という存在があるのではないか。

4. もしこの――この意味での――自給自足のような独り暮らしをえらばないなら 隣人愛は とうぜんのごとく身近な人とのマジハリをともなう。つまり普通に言う社会生活に入る。と考えられます。



5. では 隣人愛とは何か?

6. [2]の理論にしたがえば 身近な人とのあいだにおけるヨコの愛は 神とのタテの愛につうじる。ということになっている。では どういう実際のことになるのか?

7. たとえば互いにその思想をめぐって自由な批判をすること。神に対してわが身と心とその人格のすべてを知られるがごとくこころの明けが成り立っているように 自由な相互批判が 隣り人どうしの愛ではないか? 〔それでも人は 他人(ひと)には隠し事をする〕。

8. この互いの批判の積み重ねと過程とが 人間資本としての社会資本を築くことができる。のではないか? (つまり 哲学の出番ではないか?)






9. むしろこの《資本》というのは 人びとの愛――互いの社会的な生活関係のみで まづコトは足りる――から成り立っている。

10. 人びとの関係とは そもそも自然本性どうしの・つまり生まれつきそなわった互いのカカハリが想定され さらに実際の社会生活の中での必要なだけのマジハリ(交通)のことだ。

11. 厄介なこととしては 愛――人間関係――には それがヱクトルであるかのように 正(プラス)だけではなく負(マイナス)の向きもあり得ていることだ。

12. 好悪 / 愛情と憎悪 / 味方と敵対等々がある。ということは それらを全部ふくめて どう共同自治するか ? ここに問い求めの筋・愛のたたかいの場がある。と言えるか?