caguirofie

哲学いろいろ

風は気ままに吹く

ねたむ神・怒る神。

 これは 表現の問題です。
 《雪の降る夜はたのしいペチカ》と言うとき くわしく言えば たのしいのは ペチカがではなく そのまわりに集まる家の人たちがです。
 《ねたむ神》と言うとき ねたむのは くわしく言えば 神がではなく 神のもとにあつまっている社会の人びとがです。
 そういう表現の問題です。そういうふうに聖書記者は書きました。
 それだけのことです。

 それに ひとつの民族・わが民族という集団をひとまとまりとして生活していた時代には 民族の恥は 一人ひとりの恥であり 戦争をしかけられたなら 全員がたたかいます。
 復讐するは 〔人びとにではなく〕 われにありと神が言いたまう。と言うとき そのような恥辱や敗北のかたきを取るというのも 民族という塊として行動しているという時代です。
 民族の枠が取っ払われたときには 敵を愛せ(隣人を愛せ)という表現に変わります。
 《ねたむ神》と言っているのも 《神は愛なり》というのも 《神》とは何かという主題としては 神はまったく同じ存在です。
 神に向き合う人間の生活や心性のあり方が変わった。というだけのことです。それに沿って 表現がなされています。

 神が怒ったとか 罰をあたえたとか言っても すべては 表現の問題です。
 実態は 《風は気ままに吹く》というだけのことです。