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哲学いろいろ

PASCAL - Le cœur a ses raisons que la raison ignore

 

PASCAL - Le cœur a ses raisons que la raison ignore

 

 

 

★ 自我の意味がいまいちわかりません。
☆ 《 ego; das Ich; the 'I' 》ですから 《われ;わたし;わたくしなるもの;自己》のことだと思われます。

わづかに 《 alter ego: ほかのわれ;他己;他我》という言葉があって《他我》ともいうのでそれに合わせると 《自我》という訳語もありだと強弁するようです。しかしながら わたし=自己のほかに自我なるものがあるのではないです。

《わたし》が 世界の中にあって ものごとを知覚し整序して記憶し 知解において情報として取り上げさらに編集し そこから意志として欲するところを取捨選択しよいと判断したなら行動に移す。


★ 自分自身をコントロールするするのを「自我」というのでしょうが、
☆ というコトの事情は 上のような要素要因とその過程を言います。

 

 

 

★ 自分自身が変わるのも、最終的には自分自身ですよね?
☆ 《最終的》という言葉を 時間的にとるのではなく 考え方として受け取るなら 基本として人間の思惟や行動は ヒラメキに拠っていると考えます。ヒラメキを享けて時間的な最終に意志の判断・実行がくると。

 


★ 周囲から沢山アドバイスや賞賛されても、変わらない人は変わりませんよね?
☆ 《人間が 変わる》という主題ですか。――最終的な答えとして 次のように考えます。

人間は 変わります。少しづつでも変わります。何も言わなかったのが 《ありがとう》とひとこと言うように変わります。

ただし 遅々として進まず一生のあいだに一定程度にすら成り得ず変わらずじまいだという場合もあるかと見ます。

★ 怠惰な状態なままの人もいれば、改心する人もいます。
☆ ですね。

 

★ 自分自身をコントロールするするのを「自我」というのでしょうが、人は「たった一言」で変わる人もいます。
☆ ええ。

 

☆ なお ささやかな精神分析批判です。

もし 《無意識なるリビドーが欲求し むさぼるほどになるのを超自我がいさめ これらの両者を自我がほどほどの内容へとコントロールする》といった図式を採るとしても・そのように言えたとしても すべては《わたし》の問題であり《わたし》が起こしている思いや振る舞いです。

《自我》が考える・・・のではありません。ましてや自我がご飯を食べたりそこらを歩いたりするのではないです。

自我が確立するといった表現があるのですが・そしてかなり馴染んでしまったようですがこれは 《わたしがわたしである》ところのわたしのことです。わたしのほかにわたしを制御する主体は ありません。別様に自我というお化けがいるのではないです。