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哲学いろいろ

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(ヰキぺ:なぜ私は私なのか)


▲(ヰキぺ) 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの
人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろ
う。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なの
か?」
☆ そのように問うて考えている人が あなたであり 〔同じような問
いを問うている人がほかに幾人もいたとしても いま《わたし》と言っ
ている人は〕 ほかの誰でもなく ひとえに あなたであるからです。

仮りに二人・三人とあつまって同じ問いを考えているとしましょう。
でも 一人ひとりは 存在が別です。意志が別です。(それゆえにも自
由意志という捉え方が出来ます)。

この意志行為の――社会的で相対的な――独立性。これによって それ
ぞれの《われ》は 特定されて決まります。そこにあいまいさは あり
ません。

▲ 「なぜ今、ここなのか?」
☆ ほかの時・ほかの場所のことを その《いま・ここ》に立って思い
めぐらし考えたりするということを言っています。
ヒトは その自然本性のあり方として そのような――相対的で有限だ
と思われるところの――時空間の中にあるということです。

あるいは その時空間は 全体の場とわれとをくらべつつ捉えようとす
るならば 言わばそれぞれが地(ぢ)と図の関係に当たる。

この地と図とは 全体の場として――その動態として――互いに一体で
あるかも分かりません。

ただ それだけのことでしょう。その中で 一人ひとりのわれがいると
いうことだと思われます。


▼ (パスカル) 私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ
私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもな
く、この点に割り当てられたのであるかということを知らない。
☆ ぢゃあ その今の点と前後の永遠とをぜんぶ合わせた《永遠》とわ
れとは 一体であると思っていればよろしい。

そういう――ひとつの解ですが――事情なのだと思うということ。です。

あとは 文学の夢物語でしょう。と哲学は 答えます。


▼ (トマス・リード) 私の脳がその本来の構造を失い、その何百年
か後にその同じ素材で同じ知的なものが制作された場合、その存在は私
と言ってよいのでしょうか
☆ クローン人間としてのもう一人のわれだと捉えましょう。
▼ エルヴィン・シュレディンガー:はたして彼は、君とは違う誰か他の者
であったのだろうか。
☆ そのとおり。存在が(身も心も)別。意志の主体として 別である。

▼ 彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。
☆ 身にも共通性や類似性があるが 心ないし精神は 記憶(秩序作用)と
知解と意志との三つの行為能力を持つという成り立ちが ヒトにとって共通
である。

しかも 誰もが《われ》という同じ言葉で自称する。だから そういう問い
を発したいという錯覚に落ち入ることはあり得ます。

▼ …はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものな
のであろうか。
☆ 単位体としての存在の違いが 科学的な意味だと言ってよい。


▼ …なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないの
か。
☆ そのように生まれついた。なぜ そのように生まれついたのか? これ
は 分からない。そして この分からなさは 誰にも共通である。

▼ もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君
にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせてい
るのであろうか。
☆ ひとりという存在。意志ないし心としての主観が 違うということだ。

同じことを言ったりおこなったりしたとしても それぞれは互いに主体とし
て意志を発揮している・そのことが違う。

おれの代わりに意志を発揮しておいてくれということは 成り立ち得ないこ
とに成っている。そういう人間の条件のもとに生れて来ている。


▲ 人格の同一性( Personal identity: 異なる時間的(空間的)位置にあ
る人間が、同じ個人であると言えるための条件というのは何か、という形の
問い)
☆ 愚問である。




▲ (ネーゲル) トマス・ネーゲル・・・は一人称的な世界の眺め、つま
り自分が体験している主観的な今・ここからの眺めと、特定の中心を持たな
い無中心の客観的な世界の記述、この二つの対比を通じて、問題を語った。
☆ という場合にも ネーゲルというひとりの存在とその意志ないし主観が
基本の単位体としてはたらいている。ということだ。



▼ …特定の一人物、特定の一個人、すなわち、ある客観的に無中心な世界
のなかの多くの人物のうちの一人にすぎないトマス・ネーゲルが、いかにし
てわたしであるということが可能なのか。
☆ と考えているあなたが 特定のひとりの存在であるからだ。ネーゲル
しても 同じく。

▼ …わたしがトマス・ネーゲルや、他の客観的に特定できる人物に対して、
もつかもしれないどんな関係も、偶然で恣意的なものにすぎないと思われる。
☆ だから どうなのか? そういう意志行為の相互関係であり 主観相互
の社会的・歴史的な縁起共生として ひとは生きる。

ただし その社会関係をさらにどう捉えどう受け留めるかは またおのおの
主観の意志行為であり 千差万別である。



▼ 無中心の宇宙が、その限りない全時空のなかで、よりによってわたしを
生みだしたこと、しかもトマス・ネーゲルを生みだすことによってわたしを
生みだしたことを信じるのは奇想天外に思える。
☆ そう思うことは 自由である。そこ〔だけ〕には哲学としての解はない。

▼ 長いあいだ、わたしというものはなかった。しかし、ある時ある場所で
特定の物理的有機体が形成され、突如、わたしというものが、この有機体が
生きながらえるかぎり、いる。秩序ある宇宙の客観的な流れにあっては、主
観的には(わたしにとっては!)驚くべきこの出来事も、ほとんどさざ波す
らたてはしない。一つの種の一成員の実在が、こんな注目すべき結果を、ど
のようにしてもちうるのだろうか。
…わたしであるという唯一無二の特性をもつものを、宇宙がふくむようにな
ったということへの驚きは、かなり原始的な感情なのである。
☆ おどろきだけでは 哲学の解には成らない。たとえば 全世界・あらゆ
る時空間が われのことだと思えば済むことだ。


▲ 〜〜〜〜〜〜
解答の候補としては、
(あ)「擬似問題である」
(い)「私しかいない」
(う)「ただそうなっている、としか言えない」
(え)「私は生けとし生けるもの全てである」
(お)「私は全世界である」
(か)「「私」も消滅している」
がある。
〜〜〜〜〜〜〜
☆ (え)(お)は わたしの解としてあり得ます。

(う)は その状態が 初期条件としてわれわれの意志や存在を超えて与えら
れていると見ておくとよいはずだ。

(あ)は なぜ《擬似》かが理解しがたい。生きているとき ふつうに誰もが
持つ一般的な疑問だと思われる。

(い)と(か)は おかしい。考えればそれらは 一面的にしか見ていないし
一方的な判断をしているに過ぎないと分かる。



▲ 私しかいない:独我論
他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない、ただ私
が感じているこの夢としてだけそれらはある、とする。そうすると「私はなぜ
この人物か」という形の問いは基本的に解消される事となる。なぜならそもそ
もこの夢しかなく、この夢だけがあり、それ以外には何もないからである。
☆ 《夢》と呼ぼうがどう扱おうが 《感じとそしてそのように考えている主
体としてのわれは いるわけだ》となる。にすぎない。



▲ 永井均:「なぜこの夢が無いのではなく、あるのか」と「なぜこの夢はこ
うした風になっているのか、別様ではないのか」という二つの問いが残され、
それが存在の問い「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と「なぜ世界
はこのようになっているのか」という問いと合致する。
☆ 世界がそうなっているのが嫌なら 変えればよい。あるいは去って行けば
よい。だけ。――これが 哲学の答えです。





▲ 哲学者永井均は、この問いには、おそらく答えがないだろうとしている。
☆ 初期条件を――人間の条件を――受け容れるという答えがあります。




▲ 心理学渡辺恒夫は、永井均の独在論( 図中a)における<私>の特別性を解
消するため、ある一人・ある一つの何かが全生物を転生していっているという
遍在転生観を主張した(図中c)。
☆ ご自由にどうぞ。付き合い切れない。《特別性》としての人間の条件を
《解消》しようとは思わない。という立ち場がある。



▲ 心理学渡辺恒夫は、遍在転生観(へんざいてんしょうかん)という立場を
主張している。渡辺は、永井均の独在論( 図中a)における<私>の特別性を解
消するため、私は生けとし生けるもの全てである、という遍在転生観を主張し
た(図中c)。
☆ 《わたしは 全世界だ》と思うということに 何も小細工は要らない。あ
ってはおかしい。そういう思い方が 人間の条件には派生して来ると思うとい
うこと。


▲ どんなに自分が嫌いな相手であっても、・・・やがて私はあいつになる、
と思っているならば、そうした人物に対してもより深い共感の念を持って接す
ることが可能になるだろう、としている。
☆ それは 順序がぎゃくである。人間の条件を――無条件に無根拠において
――受容するとき 他人(ひと)に対するわが心の姿勢や態度は いくらか以
前とは違って来るはずである。

《自分が嫌いな相手》は そのまま嫌いだという自分の心を自分がやはり受容
している。ということだ。好きな場合も 同じく。好き一辺倒にはならない。



▲ 私は全世界である:「梵我一如」
☆ ただし この考えは むしろ考え(思考)に非ずとして《非思考》と捉え
たほうがよい。

つまり 人間の条件を――無条件で無根拠において――受け容れるということ。
そうすると わが心の奥の院には 《非思考の庭》が成る。これが じつは信
仰である。

思考は これとは別に 経験合理性にておこなう。

▲ シュレディンガーがこの問題に関して述べている主張は大きく二つに絞ら
れるが、一つは時間において現在しかないということ、もう一つはすべての意
識がひとつであるということ、である。
☆ 違う。むしろ現在は 《永遠の現在》なのである。
そして 《意識や思考ないし想像》の問題ではないということ。非思考の庭で
たとえば ヒラメキが起き あるいは 良心のハタラキとして胸が高鳴り顔が
赤らむといったヤマシサ反応を起こす。

思考ないし経験思想は 移ろいゆかざるを得ない相対的なものだ。非思考の庭
に起きる良心やヒラメキは あたかも神の啓示のごとくはたらく。信仰と呼ぶ
所以である。

そしてそこにおいて――いまは 推測をまぬかれないのだが―― いま・ここ
は 《永遠の現在》として 全世界と相い向かい合っている。

▼ シュレディンガー
君は大地のように、否それにも増していく幾千倍も金剛不壊である。確かに明
日大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を
産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、
今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回とな
く、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠に
そして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、
現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。
この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのな
い)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなの
である。
☆ そうかもね。


▲ 一つは、意識については普通のメレオロジカルな関係、つまり一般的な部
分・全体関係というのが成り立たないのだということ。そして次に、意識につ
いては普通の数量的関係、つまり例えば一人の悲しみより千人の悲しみの方が
より悲しい、といったことは成り立たないのだということ、である。
☆ と言えましょうね。

▲ 「私」も消滅している
☆ 省きます。
▲ フランシスコ・バレーラ
この問題は倫理学における利己主義の問題と関わる。他者の痛みが痛くないこ
と、自分の痛みだけが痛いこと、この基本的な事態が利己主義というものが成
立しうる基盤を提供している。もし他者の痛みが、自分の痛みと同様に、痛い
ならば、利己主義を貫徹することには強い困難が伴う。
☆ これは すべてそうだとしても さらにそのあと 先ほど触れた良心のハ
タラキとしてヤマシサ反応が起きるかどうかにかかっている。と見られる。