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哲学いろいろ

認識論における《コペルニクス的転回》

【Q:認識論における《コペルニクス的転回》の成否を問います。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10794508.html

1. ▲(カント:感覚しうる空間のほかに 認識し得ない物自体としての
空間がある) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2. 空間という直観形式が実在性( Realität )をもつと同時に 観念性
( Idealität )をももつということ・・・。

3. つまり空間は 外的現象として我々に現われ得るところのものに関し
ては実在性(即ち客観的妥当性)をもつが しかしそれと同時に もし物が
理性によって物自体として――換言すれば 我々の感性の性質を顧慮せずに
――考えられるならば 物に関しては観念性をもつわけである。

4. それだから我々は 空間の経験的実在性(一切の可能的な外的経験に
関しての)を主張するが それと同時に空間の先験的観念性をも主張する。

5. 空間の先験的観念性とは 我々が一切の経験を可能ならしめる〔主観
的〕条件を捨てて 空間を物自体の根拠に存するところの何か或るものと考
えるならば 空間は無である ということである。
( I.カント:『純粋理性批判』?・第一部門・第一節 空間について 3
空間概念の先験的解明 ( b ) 篠田英雄訳 1961 )
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6. この〔引用者が解釈したところの〕《物自体としての空間》――それ
は 《直観形式》(2)でもある――は 次の引用文における《純粋直観》
のことだと捉えてよいと思われる。

7. ▲(カント:同上 ?・第一部門 先験的感性論 緒言 1 )〜〜
空間という純粋直観は 感官や感覚などの対象が実際に存在していなくても
我々の心意識における単なる感性的形式として ア・プリオリに成立するの
である。
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8. ちなみに (5)ではこのように仮説した《直観形式・純粋直観とし
ての空間が 無である》と述べられているが それは 経験的実在性ではな
く先験的観念性だということ(4)に同じい。

8−1. つまり 認識し得ない物自体にかかわるゆえ ちょっと分かりに
くいが《無である》とも言ったのであろう。



9. さて 問いは簡単である。(2)の《実在性》と《観念性》とはまっ
たく同じことではないか? です。

9−1. 別のものとして分析しえたとしても 互いに同時につねに共に成
り立っているのではないか?


10. (3)で分析しているように どちらかと言うと 《外的現象》と
してわれわれの感官を刺激する空間としては 経験的実在性が先であるよう
に思われるが ともあれ われわれ人間も世界なる場にあって単体存在とし
てひとつの空間をも成しているからには いま触れた実在性が 同時にわれ
われの心身なる存在において 概念ないし観念となっているとも考えられる。

10−1. (7)の・観念性の単独成立の説に反対するわけである。

11. すなわち 天動説が地動説にひっくり返ったというコペルニクス
転回が 認識論において成ったというのは 言い過ぎではないだろうか?