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哲学いろいろ

知覚を通さないで記憶内面において生まれる情報

知覚を通さないで記憶内面において生まれる情報

ところで 知る者と知られるもの 主観と客観との関係において カントが直観の受容性と概念の自発性をいかに一体的にとらえるかに腐心したことはよく知られている。そして 若きヘーゲルもこのカントの考え方を《感覚的なものは 同時に思考的なものである》という言い方で受け継いでいた。


このことは『エンチクロペディー』において ライプニッツによる有名な経験主義のテーゼ《予め感覚のうちになかったものは 知性のうちにはない( nihil in intellectu quod non fuerit in sensu )》を 思弁哲学は認めなければならないだけでなく その逆 つまり《予め知性のうちになかったものは 感覚のうちにはない( nihil in sensu quod non fuerit in intellectu )》ということをも同時に認めなければならないと述べて強調している(『エンチクロペディー』八節)。
 つまり 経験はその入り口においてすでに世界の概念的内容に充たされていることを強調しているのである。


同じく『エンチクロペディー』では カントの《内容を欠いた思考は空虚であり 概念を欠いた直観は方向を見うしなっている》(『純粋理性批判』B75 熊野純彦訳 作品社 2012)を念頭に置きながら 《感覚から発する精神のある発展は しかし あたかも知性は根源的 徹底的に空虚であり したがってそれゆえに あらゆる内容を知性にとってまったく疎遠なものとして 外から受容するかのように解されるのが常である。しかし これは 誤謬である。》(『エンチクロペディー』447節補遺 船山信一訳『精神哲学』岩波文庫 下・97頁))とヘーゲルは述べている。


実は この考えは私の見るところ カントに加えてアリストテレスの『魂論』の読解によって より力強く後押しを受けたように思われる。というのも 同じ個所で《感覚のなかには全理性――精神の素材が存在する。あらゆるわれわれの表象 思考 概念は・・・・われわれの感覚する知性から発展してくる。これは逆の言い方をして それらが完全な展開をえた後には 感覚の単純な形式に集約されるといっても同じである》(同 船山訳 下・96頁)とヘーゲルは述べているが これはアリストテレスが『魂論』において 《感覚( aisthesis )》と《知性( nous )》を同じ構造において分析していることにヒントをえたものではないか。


というのは 対象の《形相を素材抜きに受容する》ことで それぞれの働きが《実現状態( energeia )》になるとき最終的に対象と一体化するという構造が おそらく念頭に置かれているように思われるからである。
これは 同じ知性でも先の『形而上学』Λ巻第七章の《能動知性としての神》とはちがって《受動知性》に関わる事柄であるが いづれにしても ヘーゲルは《知性》における能動性と受動性の両面を 自らの《精神の哲学》の一つの道標としていたように思われる。ただし それはあくまでも登りつめた頂上からの展望であって そこに至るまでの道程にはさまざまな労苦と苦闘が存在することは言うまでもないことである。ヘーゲルは それを《概念の労働( die Arbeit des Begriffs)》(『精神現象学ホフマイスター版 57頁)という言葉で表現していた。
神崎繁アリストテレスの子供たち――ヘーゲルマルクスハイデガー  ? ヘーゲル 神崎繁熊野純彦・鈴木泉編著 『西洋哲学史 ? 《ポスト・モダン》のまえに 』 2012 講談社 pp.267−269)

しかし これらの悲惨な現状(=不条理なる現象)において忠信であり善である(=不可思議な自分を愛する)人が この生から幸福な生に到るであろうときは 今は決してあり得ないこと つまり人間が欲するままに生きること が真実となるであろう。
なぜなら 彼はあの祝福(=恩恵)において悪しく生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。愛されるものはすべて現在するであろう。現在しないものは欲求されないであろう。・・・
アウグスティヌス:三位一体論 vol.13・ch.6〔10〕中沢宣夫訳)