caguirofie

哲学いろいろ

カント批判のいくらか

カント:《意志の格率が普遍的な立法の原理として》

1. いわゆる定言命法ってやつです。この命題について問い求めます。

▲ あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうる
ように行為せよ
△ Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen
kannst, dass sie ein allgemeines Gesetz werde.
( Kritik der praktischen Vernunft )
△ Act only according to that maxim whereby you can, at the same
time, will that it should become a universal law.


2. この命題は 《わたしの意志の格率》と《普遍的な立法の原理》とが 
ふたつあるという前提に立っています。


3. もし《原理》が いわゆる永久法(神の法・真理)のことを言うのな
ら 確かにふたつのことがあります。

 

3-1. ただし――ふたつあるのだけれども―― 《わたしの意志の格率》
は むろん相対的な思惟の内容でしかなく 絶対なる《原理》とは 絶対的
に隔たっています。同じ次元に相い並ぶふたつではないということ。

4. すなわち 《原理》が神の真理だと取る場合には言ってみれば 《物
自体》のことである。もしくは物自体にかかわらせたかたちで捉えられた何
かである。

5. その場合には わたしは存在としても意志としても その原理に及ぶ
ものではないからには けっきょくかつとうぜん《信仰》の問題になる。経
験合理性にもとづく思考を超えたところの問題となる。

 

6. そうでなく《普遍的な立法の原理》とは 経験合理性にかかわるとこ
ろの倫理規範などであるのだろうか? けれどもその時にはそれは 《わた
しや わたしたち》が考えたもの・考えつづけるものであるとなる。

7. それは 理にかなわない。なぜなら 《わたしの意志の格率》もまっ
たく同じくわたし〔たち〕が考えた思惟であって 信条や倫理規範のことで
あるにほかならないのだから。ふたつのものは 実際には同じものである。
同じ次元のものである。

8. つまりその時には せいぜい《あなたの倫理的な思惟および行動を 
より一層普遍的な内容のあるものにせよ》と言っているに過ぎない。

 


9. 《普遍的な立法の原理》を 永久法(真理)としてではなく いわゆ
る《自然法》として捉えるのは どうか? 

10. 自然法は どういうかたちでにしろ 永久法からヒラメキやそのイ
メージを直感して一定の概念内容として言葉に表現した倫理命題だというこ
とになる。

10-1. わたしたち人間の考えた《人定法(ふつうに言う法律)》や倫
理思想とは 少し違う。神秘の色を帯びている場合がある。


11. けれどもけっきょく 自然法を相手にするとしても 最後には経験
思考によって判断することになるか それともそれを超えて物自体との――
非思考における―― 一体性(つまり 信仰)によるか ふたつに一つとして
分かれる。

12. だとすれば こうなる。《神を信じなさい――物自体とわれとの一
如なる境地に到れ――》という内容であるにほかならない。

 

13. すなわち・つまり・取りも直さず 定言命法と言っても ふつうの
経験思想(≒生活態度)か さもなければ非経験にかかわる非思考の庭(=
信仰)か いづれかであるほかない。


☆ どうなのでしょう。ほかに解釈の余地はありますか? ご教授ください。

 

 

 

《数学的判断はすべて綜合的である》はマチガヒである。《総合的判断》はイデアから勝手に演繹しただけ。

1. カント批判です。

▲ (カントによるその例証) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. おそらくはじめは 7+5=12 という命題(判断)はまったく分析的
命題であり この命題は七と五の和という概念から矛盾律にしたがって生じる
と考えられるかも知れない。

3. しかし さらに立ち入って考察すると 七と五の和の概念が含んでいる
のは二つの数を或る一つの数へ結合するということだけで 両方の数を総括す
るこの一つの数が何であるかは その結合によってはまったく考えられていな
いことがわかる。

4. 十二という概念は 私が七と五を結合することを考えるだけですでに考
えられているのではけっしてない。だから そういう可能な和の概念を私がど
んなに分解してみても 私はその中に十二を見つけ出しはしないだろう。

5. 両方の数の一方に対応する直観 たとえば五本の指とか〔・・・〕五つ
の点といったものを助けにして この直観に与えられた五つの単位をつぎつぎ
に七という概念に付け加えることによって われわれはこれらの概念のそとに
出て行かねばならないのである。

6. したがって われわれはこの 7+5=12 という命題によって自分の
概念を現実に拡張し はじめの概念に この概念においてはまったく考えられ
ていなかった一つの新しい概念を付け加えるのである。
・・・
( I. カント:『プロレゴーメナ』§ 2 (c) 土岐邦夫・観山雪陽訳(1972))
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

7. けれども 五も七も十二も それぞれ《単位数の――つまり [5]で
〈五つの単位〉と言っているその―― 一(いち)》から出ておりその積み重
ねである。

8. つまりわれわれは 7+5=12 という命題によって はじめの五や七
という概念ではまったく考えられていなかった新しい十二という概念をつけ加
えたのではなく そうではなくて 単位数の扱い方を延長展開しただけである。

9. そのように――単位数《一》の五つ目は五であり 七つ目は七であり 七
の五つあとは 十二だというふうに―― 取り決めただけのことである。数の
名前を決めただけである。

9-1. 《一》という単位数については おそらくヒトの存在に対応させた
ものと考えられます。手の指を量として認識するのに 数を発明したのかも知
れないですが 存在――それは 動態――の中軸としての意志が 単位数を決
めたように思われます。

9-2. 意思決定は そのつど――他の意思決定とは たとえ内容が同じで
あっても基本として互いに切り離され相対的な独立性を持って―― 一回性とし
て成り立っている。

10. ――のではないのだろうか?

 


11. そして 総合的判断とは ただいわゆるイデアから人間が勝手に演繹
してみちびいたと言うに過ぎない。

12. 現実におこなわれるのは すべて経験的な――要素分析的にして全体
観にも立った経験合理性にもとづく――認識および判断である。ヒラメキもあ
るでよーと付け添えたとしてもである。


13. 総合的判断は 例のアプリオリな――全体として経験事象に属するが
それが起こるのは あたかも人間の意志行為という経験には先行するという先
験的な――自然本性としてそなわっている・・・と言わんばかりである。

14. 時間空間の認識が 悟性としてだが人間の意志による認識行為に先行
しているという仮説のことである。

15. これが 例のモリヌー問題として――視覚には 先験的な空間の知覚
というハタラキは観察されなかったという反証として――提起されているにも
かかわらず 現代にもなおカントの衣鉢を継ごうとする発言があとを絶たない。

16. つまり――結論だけを添えるという愚行をおかしますが―― 現実は
コペルニクス的転回などは起きていない。カント説は うそである。(せいぜ
い 悟性も 感性による知覚や理性による認識および概念展開とともに その
一連のハタラキの過程において同時に起きているというまでではないだろうか)。

 

 

 

《世界は時間的な始まりを持つ》なる命題は アンチノミー説のごとくにそれとして 成り立つか?

1. 次の資料で問い求めて行きます。

▲ 純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第一矛盾 Immanuel Kant
http://studium.xsrv.jp/gallery/exhibition/antino

▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. 正命題:世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有す
る。

証明
3. 仮りに世界は時間的な始まりをもたないと想定してみよう。

4. そうすると与えられたどんな時点をとってみても、それまでに無窮
の時間が経過している、

5. 従ってまた世界における物の相続継起する状態の無限の系列が過ぎ
去ったことになる。

6. しかし系列の無限ということは、継時的綜合によっては決して完結
され得ないことを意味する。

7. 故に過ぎ去った無限の世界系列は不可能であり、従ってまた世界の
始まりは、世界の現実的存在の必然的条件であるということになる、

8. ─これが証明さるべき第一のことであった。
(『純粋理性批判』篠田英雄訳 p.454f)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

9. ▲ [4] 無窮の時間〔が経過している〕
☆ この《無窮》は けっきょく[3]《時間的な始まりをもたないと想
定し》たその内容として 《限りなくつづくこと》を言うと見られる。

10. ところが この《無限の系列》[5]は 大きく《有限》の世界
においても 起こり得る。

11. 円周率は 一方で 小数点以下のあたいとして限りなくつづく・
従って[6]《決して完結され得ない継時的綜合》を成しているが 他方
では たとえば 4 という数よりは小さい・つまりそれとして一定した有
限のあたいである。

11-1. 相対世界は 仮りにその現象が単なる仮象だとしても 仮象
として現実である。

 

12. すなわちこの事例ひとつを取ってみても:
▲ 7. 故に過ぎ去った無限の世界系列は不可能であり
☆ などと言うことは まったくのデタラメである。円周率としてのごと
く成り立っており 可能である。

12-1. 或るひとの家系は 血筋として 誰一人の例外もなく万世一
系としてつづいているとしても 生命体としては 始まりがあるではない
か?・・・けれども 生命を構成する物質としては 始まりがなくてもか
まわないか?

12-2. そして物質の始まりの以前にも いまは知られない別の世界
があったかも知れない。

 

13. 世界における自然現象も人間の意志行為から成る歴史も 大きく
有限の過程世界にあって個別のものは 特定しうるかたちで限りなく継続
している。

13-1. [3]の想定は 論駁されていない。《世界が時間的な始ま
りをもたない》とすることは なお可能である。


14. 何をかいわんや。

 

 

カントによるアンチノミーの説明は成っていない。

15. 次の資料で問い求めます。

▲ 純粋理性のアンチノミー 先験的理念の第一矛盾 Immanuel Kant
http://studium.xsrv.jp/gallery/exhibition/antino

16. ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲ 反対命題: 世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限
界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。

17. 証明
世界が時間的に始まりをもつと仮定してみよう。

18. 始まりというのは、現実的存在のことである、

19. すると物の存在していない時間がそれよりも前にあるわけだから、

20. 世界が存在していなかった時間、換言すれば空虚な時間がその前
にあったに違いない。

21. しかし空虚な時間においては、およそ物の生起は不可能である、

22. かかる空虚な時間のどんな部分も他の部分に優先するようなもの、
換言すれば、非存在の条件の代りに現実的存在の条件〔物を新らたに生ぜ
しめる〕を含んでいるという意味で、他の部分から区別されるようなもの
をもたないからである

23. (なお生起する物がみずから生起するにせよ、或は他の原因によ
って生起するにせよ、かかる想定はここでは問題にならない)。

24. 故に世界においては、なるほど物の多くの系列が始まり得るにせ
よ、しかし世界そのものは始まりをもたないし、従ってまた過ぎ去った時
間について言えば、世界は時間的に無限である。
(『純粋理性批判』篠田英雄訳 p.454f)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

25. ▲ 18. 始まりというのは、現実的存在のことである、
☆ いや。現象であり 物自体の仮象であるのではないか? という物言
いは 指摘するにとどめよう。

26. ▲ 19. すると物の存在していない時間がそれよりも前にあ

☆ 何のこっちゃ? 

26-1. 《〔それよりも〕前にある》というのは――《ある》という
のは―― 仮象としてでも《存在する》と言っていることになっていはし
まいか?

26-2. 原文の前項[18]によると 《物が現象として存在する》
ならそれは 《現実的存在》であると言う。《物が存在していない》なら
つまり[20]《空虚な時間》であるならそれは 《現実的》ではないと
言うことなのだろうか?

26-3. つまり:
▲ 20. 世界が存在していなかった時間、換言すれば空虚な時間
☆ と言っている。

26-4. つまり 《物が存在していようが していまいが 時間があ
る》というのなら 《現実的ではない》ところの何かが現象していると言
っているのではないの?

26-5. つまり 《始まりより前に なおまだとにかく何かがある》
と言っているのではないだろうか? 言っているなら 何のこっちゃ? 
と言わねばならない。

 

27. いやいや とにかく何かがあると言っても その:
▲ 21. 空虚な時間においては、およそ物の生起は不可能である、
☆ のだ! とカント先生はおっしゃっている。

27-1. けれども 《〈空虚な時間〉は ある》ということだよね?

27-2. それは 世界の始まりの《前に》あると言うんだよね?

27-3. これらはすでに一等最初において そのように仕組まれて
いるよね?

 

28. そんなこんな状態で よくも言えたもんだと思うんだけれど。:
▲ 24. 故に世界においては、なるほど物の多くの系列が始まり得
るにせよ、しかし世界そのものは始まりをもたない

28-1. カント先生は初めっから 《現実的な始まりとは見なされ
得ない〔と先生自身が考えた〕世界の始まりを――それが仮りにあると
――仮定しただけのこと》ではないの?

28-2. 《空虚な時間》だって たとえ《物の生起にかかわるよう
な現実的ではない》としても 空虚な時間として 存在してるんだぞ!
とクレームをつけに来るんぢゃないですか?

28-3. そのときにこそ 《世界そのものは始まりを持たない》と
言い得るのでは?

28-4. けれどもカント先生の説明では 最初から出来レースにな
っているのでは?

28-5. 先生と呼ばれるほどのばかだよね?

28-6. だけれども 《世界の始まりの前に いったいぜんたい 〈空
虚な時間〉がある》って どういうこと? おせーて!