caguirofie

哲学いろいろ

音楽美の議論――E.ハンスリック

Tastenkasten 2015/06/01 17:26

bragelone

 たすてん先生 こんばんは。ハンスリックについてのご説明のお話をありがとうございます。
 午後10時前までプライムニュースで アベノミックスの討論を聞いていました。その前は 夕食後にアガサ・クリスティーのテレビドラマ『ミス・マープル』を録画で見ていました。


音楽美論 (岩波文庫 青 503-1)

音楽美論 (岩波文庫 青 503-1)


精神と音楽の交響

精神と音楽の交響


・國安洋:音楽における受容美学――ハンスリックの聴体験論―― in 今道友信編 『精神と音楽の交響 西洋音楽美学の流れ』 1997


 【Q:音楽の美的把捉と病的把捉とは?(ハンスリック)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8981672.html

Tastenkasten 2015/06/01 17:26

 ハンスリックの回答をだいぶ前から少しずつ書いていましたが、締切りになりました。
 今仕事が忙しいので、長く緻密な回答を書く余裕がありません。
 締切になってほっとした部分もありますが、気になっていたことを少しお伝えします。


 あの質問文の引用だけでは、ハンスリックや国安洋が何を言っているのかがわからないので、読んでいない人には回答不可能です。
 brageloneさん御自身もハンスリックそのものは読んでいないような印象を受けました。
 国安の短い論文だけでは、ハンスリックの「音楽美論」の主張は伝わりにくいと思います。
 また、「純粋聴」「音楽聴」などという言葉を使ってありますが、誤りなく把握できていますか。
 ハンスリックが批判した「Das pathologische Aufnehmen」と「純粋聴」は全然別のものですが、そこは大丈夫ですか。
 「Das pathologische Aufnehmen」は、「病的把捉」という訳だけで理解するのはまずいです。
 一般の独和辞典や、ドイツの事典にも、「pathologisch」は「病的」か、それに準じる意味しか出ていません。
 しかし、ハンスリックはドイツ哲学の伝統の流れで書いているので、「pathologisch」はまずカントの用語として考えなければなりません。
 ドイツの哲学用語辞典では、カントにおける「pathologisch」は次のような意味と説明されています。


 人間の本性のうち、感覚に依存する受動的な面で、自由な理性に基づく実践的な面に対置するもの。
 美学的な熱望とは逆に、飢えや渇きなど、局所的な強い知覚から生ずるような熱望。


 岩波文庫の「実践理性批判」の51ページの注に「純粋理性批判」の一節、
 「もし意志がパトローギッシュに強制されれば、動物的意志と呼ばれる」
 が引用されており、「ここでパトローギッシュ」という語は病理学には関係がない」と書かれています。


 また、「音楽美論」の本文中には、語源の「pathos」の原義、「耐えること(leiden)」を意識した記述もあります。
 ハンスリックがここで批判しているのは、感性、理性、知性がかかわらない、低次元の感情的享受、原初的、動物的な感情による享受です。
 したがって、「感情的享受」というのが訳としては正しいです。
 パウル・モースは「現代ドイツの音楽美学」で、この「pathologisch」は「sinnlich(ここでは感性的ではなく感覚的の意味)」
 または「elementar(根源的)」と言い換えた方がよいと指摘しています。


 Dem künstlerischen Erfassen des musikalisch Schönen steht als Gegensatz die pathologische
 (besser: sinnliche oder elementare) Wirkung gegenüber (…)
 音楽美の芸術的把握と対立関係にあるのはパトローギッシュ(より適切には感覚的、もしくは根源的)な作用である。


 ただし、「病的」という意味が全く込められていないと断言できないのがやっかいなところです。
 ハンスリックは、当時台頭してきたワーグナー一派のロマン主義音楽を強く意識してこの本を書いており、
 本文中に「病的(krankhaft)」「デカダン」などの攻撃的な表現があるからです。
 そのため、「ハンスリックの音楽美論は哲学か論争か?」という疑問も呈されています。


 The German word 'pathologisch' has always had a dual meaning, referring to both the physically and mentally (or psychologically) corrupt. The Etymologisches Wörterbuch des Deutschen dates use of the word 'Pathologie' to the early 18th century, meaning 'The study of diseases'. However, it also lists the Greek root 'pathos' and its meanings: '(mis)fortune, suffering, affect, passion, also disease, injury'.'' Although the primary meaning of the word was medical and related to physical illness, it originated from maladies of the soul. This subtext could not have escaped Hanslick, who studied philosophy and at least once demonstrates his knowledge of Ancient Greek in Vom Musikalisch-Schönen. This dual meaning is also consistent with Hanslick's use of the word: 'pathologisich' describes on the one hand, that which is scientific and related to physical infirmity and, on the other hand, related to emotional distress or even madness.
  (Robert Michael Anderson: Polemics or philosophy? Musical pathology in Eduard Hanslick’s Vom Musikalisch-Schönen)


 この辺は、時代の文脈の中で読まなければいけません。したがってこの本全体は、
 原則として、時代と無関係に現代でも通用する美学かどうかという批判に耐えるものではありません。
 それでも、いろいろな点でのちの音楽美学に影響を与える重要な考え方を含んでおり、価値を失ってはいません。
 いずれにしても、ハンスリックは感性、理性、知性がかかわるレヴェルでの感覚的享受は否定していません。
 そして、国安が言う「純粋聴」は「感覚的享受」ではなく、ハンスリックのいう「Anschauung」および
 「die kontemplative Form des Hörens」、つまり「直観的聴形態」のことを指しています。
 したがって、ここで国安が書いている「静観的」というのは、精神が外界からの影響を受けず、
 自らの内的な、独自のイデーに没頭するということで、精神がかかわらないという意味ではありません。
 その辺、読み違いをしていらっしゃいませんか? 大丈夫ですか?
 「純粋聴」と「音楽聴」を同時に行うことは不可能ではありませんが、並大抵の鍛錬でできるものではなく、
 超一流の音楽家にしかできないと思います。
 しかし「音楽聴」そのものは、一般の鑑賞者でも、学習によってある程度可能にはなるので、
 やるに越したことはありませんが、これも簡単なことではありません。
 「純粋聴」も「音楽聴」も十分にできない人が、一般の鑑賞者だけではなくプロの音楽家にもあまりにも多いので、
 あの佐村河内事件のようなものが起きてしまうわけです。

bragelone

 ハンスリックの著書は 岩波文庫で薄い訳本を図書館で見つけて 読み始めました。ほんとに薄い本なのですぐ読めると思っていたのですが なぜかほかの〔音楽とは別の〕本へ気移りがして 途中でストップしています。それと関係なく 今道友信の編集になる本を見つけて読み そこにちょうどハンスリック論が〔わたしには・つまり素人には〕ほどよい量であったものですから読んだところ わたしにとっての引っかかりがよかったのでした。

 つまり 結局ですね 音楽関係から歴史的文脈からいっさいの事柄をほっぽり出して ただただわたし自身の見方で強引に主題を捉え問うてみた。そういう事情にあります。

 すなわち 関心のあり方は 趣旨として次のようにしるしたとおりです
 ☆☆ (【Q:音楽の美的把捉と病的把捉とは?(ハンスリック)】趣旨説明欄) 〜〜〜〜〜〜〜
 いかがでしょう? 《美的把捉と病的(パトローギッシュ)把捉》そして《純粋聴と音楽聴》についてどんなものなんでしょう? 


 質問者の得ている感触としては きわめて《妥協もいいとこ》と言われても仕方のないかたちながら 《感性で得られた反応のうちに――それを言葉にし得れば――理性的・知性的にして そう言ってよければ霊的な把捉もあるのではないか》です。


 《純粋聴と音楽聴》とのふたつに純粋に分けることは出来ないし分ける必要はない。
 ただし 人によってはどちらか一方にもっぱら《純粋化》して聴く場合があるかも知れない。
 美の享受は 初めに美的把捉が前提として・構えとしてあって 得るものではない。
 うんぬんと考えます。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 
 ☆ 言いかえますと ちょうど引き合いに出された次の命題をめぐって捉えたいと思いますが:
 ▼ (パウル・モース) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 Dem künstlerischen Erfassen des musikalisch Schönen steht als Gegensatz die pathologische (besser: sinnliche oder elementare) Wirkung gegenüber (…)
 音楽美の芸術的把握と対立関係にあるのはパトローギッシュ(より適切には感覚的、もしくは根源的)な作用である。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 怖いもの知らずですから 言いますが このような《対立》はいっさい無い。のではないかという物言いなのです。

 一点説明を添えますが 《最初の知覚・感覚》と同時に《美的・芸術的また精神的な享受》をともなうとは さすが言えるものではないと思います。時間差をともなって しかるべき時には 音楽美の精神性にもたどりつくであろうと見ているものです。


 もうまったく単純に このことだけを言おうとしています。問うています。
 なんで分けるのか? まして《対立》をなぜそこに見るのか? です。


 純粋聴も音楽聴もなく 美的把捉も病的把捉も そういった二分法による捉え方はないのではないか? 
 《ただ 音楽をたのしむ》 これだけではないか? なのです。


 くわしい説明のあるところをももう端折ってしまいますが この言い分に尽きると思うのです。
 たぶんこれは 素人の強さでもあり 弱みでもあるのだと推測します。
 いかがでしょう。

Tastenkasten 2015/06/02 01:36

 >このような《対立》はいっさい無い。のではないかという物言いなのです。


 (笑)あのですね、これはハンスリックがおかしいというより、哲学者全般に共通することですよ。
 こういう時、必ず「対立」なんて言う言葉を使って「定義」しなきゃ気が済まないじゃないですか。
 こういうレトリックが定石化しているんじゃありませんか。特にドイツ観念哲学では。
 だから私は、哲学者の音楽美学には興味を持たずに来たんです。


 ハンスリックは、音楽美学が哲学分野の美学から独立して音楽分野の音楽学へ発展する、ちょうど分岐点にいる人です。
 しかし、ハンスリック自身はもともと音楽畑の人ではなく、この本も哲学的色合いの濃いものですね。
 私に言わせれば、これは「対立」などという大げさなものではなく、「段階」に過ぎない。
 ただ、先ほど書いたように、ワーグナー陣営への敵対心もあったので、本来するべき聞き方とは逆だということを強調したかったのかもしれません。
 対立を際立たせずにはすまなかった。
 「音楽美論」を時代の文脈の中で読まなければいけないと私が言ったのは、こういうところもあまり真に受け過ぎない方がいいということなんです。
 国安の「純粋聴」と「音楽聴」は少しわかりにくいですが、対立とは言っていませんね。
 もともとこの二つは、両方ともハンスリックの主張する「美的把捉」に属することですから、そういう意味では対立関係にあるはずはないです。
 「純粋聴」と「音楽聴」をはっきり分ける必要はない、という点については、ちょっと話がしにくいです。
 最終的にははっきり線の引けるものではありませんが、音楽の鑑賞能力を高めるためには、少し意識する段階もあってよいと考えます。
 実際、この「音楽聴」を学校の音楽の授業で、音楽鑑賞教育の方法として取り入れる動きがあります。
 簡単なことではありませんが、「音楽聴」の能力が付けば、「純粋聴」のレヴェルも自ずから向上します。
 ただ、音楽を単なる娯楽としてしか考えていない人は、こういうことには最初から興味を持たないでしょうね。
 そういう人を動かすのは、長年の経験から不可能だと思っています。
 しかし、肉体的、単純感覚的快感さえ得られれば、曲が良かろうが悪かろうがどうでもいい、というのは芸術鑑賞とは言えないでしょう。
 これは、brageloneにとっては大した問題ではないかもしれませんが、クラシック音楽を仕事にしている者にとっては、かなり深刻な問題なんです。
 日本に限らず本場ヨーロッパでも、20世紀後半以降、クラシックを聴く人が減り続け、ほとんどの人がポップ・ミュージックに流れていきました。
 ポップの全部が悪いとは言いません。優れたものもあります。
 しかし、一定のテンポで、大きな音で叩き続けるドラムのリズムから得られる肉体的、感覚的快感とか、
 アンプで拡声された大音響の快感とかに引きずられている部分はかなり大きいです。
 こういう音楽が出てきてしまったあと、クラシックは感覚的快感が少なく感じるのは当たり前で、
 クラシックなんか退屈だという人が増え続けることになりました。
 ショパンの祖国、ポーランドでは、若者がポップ・ミュージックばかり聞いて、ショパンの曲を一度も聞いたことがない。
 ベルリン・フィル音楽監督サイモン・ラトルも子供のためのコンサートをやっていますし、
 ウィーン国立歌劇場でも、やはり子供たちがクラシックを知らないので、有名なオペラを子供用に短くアレンジして、鑑賞教室をやっています。
 「純粋聴」とか「音楽聴」などに分けて論じることそのものには、私も興味はありません。
 私は実践的な音楽家ですから、そういう論議は哲学者が好きにやっていればいいと結構他人ごとに考えています。
 ただ、自分が普段音楽を聴いているときの方法と、この「純粋聴」「音楽聴」が重なる部分があるとすれば、
 それは、楽譜を見ずに音楽を聴くことと、見ながら聞くことかもしれません。
 楽譜を見ながら聞くと、ただ聞いているだけの時にはつい聞き逃してしまうようなことに気が付き、作品の美を漏らさず享受することができます。
 これがハンスリックの「美的享受」の一つ、「随伴(begleiten)」に当たるのでしょう。
 その一方、音楽は時間芸術で、美術作品のように全体を俯瞰することが難しい。
 楽譜を見ながら聞いていると、細部は鑑賞できるのですが、全体として面白いかどうかを見失います。
 楽譜を見ずに聞くと、別の視点から美しさが理解できます。これが「Anschauung」、「純粋聴」に当たるのかもしれません。
 国安洋は、「純粋聴」と「音楽聴」は同時にはできないといっていますが、そんなことはないと思いますよ。
 理想的には、そういうことを意識せず、ただ聞くだけでわかるようでありたい。
 その段階に到達するには、一旦「音楽聴」というような段階も経験し、最終的に再びそこから自由になって無心な聞き方に戻ることができれば、
 それが一番良いのではないかなどとも考えます。
 ただ、いずれにしても難しいことではありますね。中途半端に知識をつけると、かえって変な「音楽通」といういやらしいものになります。
 今道友信が「美について」の中で、芸術の鑑賞には知識が役にたつこともあるのではないか、として、
 ピカソゲルニカの意味や、ブルックナーの第5交響曲が単一のテーマでできていることなどを例に出していますが、
 ゲルニカの方は、単なるエピソード、ガイド的なレヴェルを出ていませんし、ブルックナーの楽譜の分析はまずいと思いました。
 NHKが佐村河内のドキュメンタリーを制作したとき、音楽学者が楽譜を分析して、
 「こことここに十字架音型が出てきており、これが平和への願いを表している」などと大嘘の分析をしていました。
 音楽の知識に基づく「音楽聴」がこういうことになるのなら、やらない方がまし、ということはあります。
 とはいっても、多くの人が「広島交響曲」の嘘が見抜けなかった理由は、やはり音楽美を享受できていなかったからなんですよね。
 あの曲は、感覚的にしか聞かない人はいくらでもだまされるようにできた曲でした。
 「魂の旋律」などと言われていましたが、実際には旋律といえるほどのものはなかった。
 ヘーゲルショーペンハウアーも、音楽のもっとも本質的なものはメロディーだといっていますが、
 そのメロディーさえ認識できていないんですよ。音楽が音響的に効果があり、響きがある程度心地よいと、
 実際にはメロディーなどないのに、あると錯覚してしまうんです。
 つまりこういう聞き手には、感性による反応や、理性や知性による把握が起きていない。メロディーが聞こえていない。
 これがハンスリックの言うパトローギッシュなレヴェルですね。
 そしてこれを対立と表現したのは、先ほども申しあげたように、哲学的レトリックとワーグナー一派への皮肉であって、
 実際には単に「未発展、未開発の段階」という程度のことでしょう。
 そういう聞き方が、結果的に音楽界全体のレヴェルを下げてしまう。だから、ただ聞いて楽しめばよいと言われても、簡単に、はいそうですね、とは言えないのです。
 ただし、次の点についてはよくわかります。


 >たぶんこれは 素人の強さでもあり 弱みでもあるのだと推測します。


 クラシックの現代音楽の作曲家のほとんどは、一般の聴衆が聴いてもわけのわからないものを書いています。
 彼らは、自分たちの専門知識で理解できるレヴェルのことしか考えていない。
 自分たちの曲が聞かれないのは、聴衆のレヴェルが低いからだと考えているかもしれませんが、
 それは思い上がりであって、聞いてもらえないという現実には、れっきとした理由があるのだということを直視するべきです。


 以上は、私にとっては哲学的論議ではなくて、現実に向き合わなければいけない、切羽詰まった問題でもあるわけです。
 brageloneさんと私では、音楽に対する立場が全然違いますから、この問題に向き合うときに温度差が出てしまうのは必然でしょうね。


 ところで、このパトローギッシュな享受というのは、音楽に特に起きる危険が高いというだけで、
 音楽のみにあることではありません。その点は、ハンスリックの文章からも読み取れます。
 たとえば文学作品を読むときに、ストーリーが面白くスリリングで、読んでいて興奮すればそれでよい、
 言葉の美しさ、表現の巧みさを味わうことには興味がない、あるいは気づかない、という読み方があるでしょう。
 今の若い人が、本格的な文学作品を読まないで、漫画やライトノヴェルばかり読むのも、そういうところに原因があるのではないでしょうか。


 渡辺護の翻訳はもう古くて読みにくくありませんか。私は原文で読んでいて、先週、翻訳と国安洋関係の書物を数冊借りてきました。
 ハンスリックは、最終的には感覚的な聞き方を否定するという、ヘーゲルとは逆の結論を出しましたが、
 原文で拾い読みしたあとでヘーゲルの音楽美学の原文をちょっと覗いたら、なんだか似たようなことが書いてあるような気がしたのです。
 そう思いながらネットを見ていたところ、ベルリン芸大の学生の卒論か何かに、ハンスリックの「音楽美論」は、
 ヘーゲルの注釈のようになっていると書かれていて、なるほど、やはりそれまでの哲学者を相当意識してやっていたのだなと思いました。


 仕事が追い込みです。今回はここまでということで。

Tastenkasten 2015/06/02 01:45

 一か所、「brageloneさん」と書くはずだったところで、「さん」が抜けて呼び捨てになってしまいました。
 大変失礼しました。

bragelone

 お早うございます。ご説明をありがとうございます。


 ★ 私に言わせれば、これは「対立」などという大げさなものではなく、「段階」に過ぎない。
 ☆ なるほど。という見方を受け留めるなら わたしが次のように見たことも 《段階》として捉えてよいと思い わたしも満更ではないと悦に入ってよろしいのでしょうか どうでしょうか。:
 ☆☆ 一点説明を添えますが 《最初の知覚・感覚》と同時に《美的・芸術的また精神的な享受》をともなうとは さすが言えるものではないと思います。時間差をともなって しかるべき時には 音楽美の精神性にもたどりつくであろうと見ているものです。


 ★ ただ、先ほど書いたように、ワーグナー陣営への敵対心もあったので、本来するべき聞き方とは逆だということを強調したかったのかもしれません。 / 対立を際立たせずにはすまなかった。
 ☆ このご指摘もなるほどと合点が行きます。あとのほうで
 ★ 渡辺護の翻訳はもう古くて読みにくくありませんか。
 ☆ とコメントを添えておられるところで思い出しましたが この翻訳者は解説で ハンスリックに対して出版当時に反対論が多かったが 必ずしもそれは的を射た評価ではない つまり読み違えもあるはずだといった趣旨のことを書いていたように思います。それをわたしは嫌ったわけではなく そうではなく《快いパトローギッシュ》な感じで受け取っていたのですが なぜか途中で一休みしてしまいました。
 ただし ここでも《ワーグナー陣営》が出て来るのですか。わたしは じつは ワーグナーの作品じたいには それほど思い入れがありませんので(鈍感のつよみ!) そういった時代背景をピンと感じ取るようには分からなかったのですが。


 でも 結果的にそれでいいんですか。つまり:
 ★ 「音楽美論」を時代の文脈の中で読まなければいけないと私が言ったのは、こういうところもあまり真に受け過ぎない方がいいということなんです。
 ☆ 思潮やさらにはその陣営が出来ていて互いに対立するといった文脈を受け流す・つまり しかるべき形でそぎ落とす。ですか。


 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 国安の「純粋聴」と「音楽聴」は少しわかりにくいですが、対立とは言っていませんね。
 もともとこの二つは、両方ともハンスリックの主張する「美的把捉」に属することですから、そういう意味では対立関係にあるはずはないです。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ はい。同じ範疇に捉えつつ 微妙に仕分けているように受け取られます。:
 ▲(質問の趣旨説明欄:國安洋の解説) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
 (さ) 音楽の美的把捉は純粋聴であるとともに音楽聴でもある。
  しかし この二つは音楽の聴き方の別個の形態である。
  たとえば われわれはひとつの音楽作品に同時に純粋聴と音楽聴をもってかかわりあうことはできない。
  あるときには純粋聴 またあるときには音楽聴をもって聴くのである。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 出しゃばってしまいますが 次のように書きました。
 ☆☆ (回答№2 お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ▲(け) いかなる関心ももたずに耳を澄まして音楽に聴き入ること[・・・]そのような聴き方に対する定まった呼称はないが 《純粋聴》とよぶことができるであろう。
  ☆ というときの《純粋聴》であっても いま引用した《精神の受動的かつ能動的なはたらき》は 追ってついて来るのではないかと思ったのでした。

  この純粋聴の定義も ややこしいと感じます。
  ▲ いかなる関心ももたずに耳を澄まして音楽に聴き入ること

  △ 音楽は何となく好きだという理由をもってそのほかには特別の関心を持つことなく流れて来る音楽に耳をかたむけて音楽にしたしむこと

  ☆ でよいと思うのです。そのとき 《音楽とのあいだに精神活動をともなった流通関係が起きる》と言ってよいと考えます。つまり 純粋聴はそのまま音楽聴である。と。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ☆ お聞きしたい気持ちになるのは
 ▲ あるときには純粋聴 またあるときには音楽聴をもって聴くのである。
 ☆ というような事前の心構えみたいな姿勢は ほんとうに実際のことなのでしょうか? と思ったら その次に答えを書いてもらっています。:
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「純粋聴」と「音楽聴」をはっきり分ける必要はない、という点については、ちょっと話がしにくいです。
 最終的にははっきり線の引けるものではありませんが、音楽の鑑賞能力を高めるためには、少し意識する段階もあってよいと考えます。
 実際、この「音楽聴」を学校の音楽の授業で、音楽鑑賞教育の方法として取り入れる動きがあります。
 簡単なことではありませんが、「音楽聴」の能力が付けば、「純粋聴」のレヴェルも自ずから向上します。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 心構えを《少し意識する段階もあってよい》。したがってそのような姿勢も取ることがある。でしょうか。


 ここで 少しあとで指摘されているところを確認しておきます。:
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 国安洋は、「純粋聴」と「音楽聴」は同時にはできないといっていますが、そんなことはないと思いますよ。
 理想的には、そういうことを意識せず、ただ聞くだけでわかるようでありたい。
 その段階に到達するには、一旦「音楽聴」というような段階も経験し、最終的に再びそこから自由になって無心な聞き方に戻ることができれば、
 それが一番良いのではないかなどとも考えます。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 この問題点につきまして もう少し引き延ばします。
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ただ、音楽を単なる娯楽としてしか考えていない人は、こういうことには最初から興味を持たないでしょうね。
 そういう人を動かすのは、長年の経験から不可能だと思っています。
 しかし、肉体的、単純感覚的快感さえ得られれば、曲が良かろうが悪かろうがどうでもいい、というのは芸術鑑賞とは言えないでしょう。
 これは、bragelone さんにとっては大した問題ではないかもしれませんが、クラシック音楽を仕事にしている者にとっては、かなり深刻な問題なんです。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ このあとクラシック愛聴者が減って来ているといった課題・ポップミュージックが有力すぎるほどではないかという課題がつづられていますが わたしにとって《音楽をたのしむ》というのは――ちょっと討論気味になりますが―― やはり次のような《社会との伴走》としてのあり方なのです。
 ☆☆ (回答№2お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 〔回答者氏は〕〔ハンスリック≒國安の推し出し重要視する〕精神のはたらきについては 《高貴なる魂》として触れておられるようです。


 〔音楽をたのしむことをとおして〕過去との対話のごとき精神活動をうながし そこから未来へとも歩を進めるのだとおっしゃっていましょうか。


 〔回答者の言う〕《乞食》とは 能書きやカザリが要らないといった意味に〔わたし=ぶらじゅろんぬは〕受け留めました。
 《みなが乞食だ》というのは けっきょく間接的にせよ社会生活は共同生産であり共同建設であるから 互いに共食であるという現実のことでしょうか。


 その現実を音楽はつねに音のしらべで伴奏しているといったことなのでしょうか。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわち 時代の現実を音楽はあたかも伴奏するかのように現われつつ(先取りもしつつ) 社会と人間と音楽(芸術)は互いに伴走しているといったような図柄ですが そこで不易・流行といった切り口を持つなら とうぜんクラシックのあるべき位置も決まってくると思います。


 ただし・ただし いわゆる専門家にとっての世界もあるようなのですね。:
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 それは、楽譜を見ずに音楽を聴くことと、見ながら聞くことかもしれません。
 楽譜を見ながら聞くと、ただ聞いているだけの時にはつい聞き逃してしまうようなことに気が付き、作品の美を漏らさず享受することができます。
 これがハンスリックの「美的享受」の一つ、「随伴(begleiten)」に当たるのでしょう。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ このあいだ神尾真由子が クロイツェルが画期的なあたらしい発想で作られた曲だと解説したのを受けて演奏を聞いたら 何度も聞いた曲でしたし しかも曲名と・そしてさらにはベートーベンとが初めて一致したというテイタラクなのですが なるほどよさそうだと思いました。そして録画したのをまだ消さずに何度も聞いています。といった経験から 少しは分かるような気がしますが 言うまでもなく《譜面》のお話までには及びません。
 〔神尾真由子庄司紗矢香とが 名前が違うのに 同じ人だと思っていました。先週 クラシック倶楽部に引き続いて出ましたのでやっと別の人物だと知りました〕。


 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 その一方、音楽は時間芸術で、美術作品のように全体を俯瞰することが難しい。
 楽譜を見ながら聞いていると、細部は鑑賞できるのですが、全体として面白いかどうかを見失います。
 楽譜を見ずに聞くと、別の視点から美しさが理解できます。これが「Anschauung」、「純粋聴」に当たるのかもしれません。
 国安洋は、「純粋聴」と「音楽聴」は同時にはできないといっていますが、そんなことはないと思いますよ。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ わたしなどは その曲の世界に入るということと そしてサワリの部分 せいぜいこの二点くらいでしょうか 焦点となるのは。(鈴木理恵子の奏でる音色には びっくりしたことがあります)。




 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 今道友信が「美について」の中で、芸術の鑑賞には知識が役にたつこともあるのではないか、として、
 ピカソゲルニカの意味や、ブルックナーの第5交響曲が単一のテーマでできていることなどを例に出していますが、
 ゲルニカの方は、単なるエピソード、ガイド的なレヴェルを出ていませんし、ブルックナーの楽譜の分析はまずいと思いました。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ ゲルニカは 歴史問題ですね。絵と関係ありません。そのあとで 関係づける見方もあるのだと思います。
 ブルックナー論は分かりません。(のに 質問のやり取りで引用はしましたが)。



 ★ 音楽が音響的に効果があり、響きがある程度心地よいと、 / 実際にはメロディーなどないのに、あると錯覚してしまうんです。
 ☆ これは お聞きしたあとでも どういうことなのかが分からないので何とも言えないのですが 何だか驚きですよね。
 佐村河内のドキュメンタリーも曲も事件の詳細も スルーして来たところがあるのでこれまた何とも言えないのですが そうですねぇ わたしに分かるところで引き合いに出せるのは ひとつに 詩の翻訳で詩心が無い翻訳ですね。
 絵心としては 人によって見方が違うのでしょうが 東山魁夷に較べると平山郁夫は 何だか違うように感じてしまいます。
 村上春樹は ストーリテラーとして抜群ですが 文学作品としては 模索していたそのあと ゼロに落ち入ったとわたしは思っています。エンタテインメント専門になったと。
 そう言えば 音楽については ほとんど分からないところがありますね。雑音だという場合には それとして分かりますが。あとは 何度も聞きたいと思うかどうかですね 素人の場合。
 〔突拍子もないことを言うのが好きなのですが サティは バッハとベートーベンとを足したものを50倍ほどに水割りをした感じです〕。



 ★ クラシックの現代音楽の作曲家のほとんどは、一般の聴衆が聴いてもわけのわからないものを書いています。
 ☆ そう受け取っていいのですね。安心しました。


 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ハンスリックは、最終的には感覚的な聞き方を否定するという、ヘーゲルとは逆の結論を出しましたが、
 原文で拾い読みしたあとでヘーゲルの音楽美学の原文をちょっと覗いたら、なんだか似たようなことが書いてあるような気がしたのです。
 そう思いながらネットを見ていたところ、ベルリン芸大の学生の卒論か何かに、ハンスリックの「音楽美論」は、
 ヘーゲルの注釈のようになっていると書かれていて、なるほど、やはりそれまでの哲学者を相当意識してやっていたのだなと思いました。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ ヘーゲルの美学は 音楽のところを読んだのですが 何だか引っかかりのないまま読み終えていました。この音楽美論について解説を書いた人はよくここから解説を書けたなぁと驚いてしまいました。(訳文が こなれ過ぎていたのですかね。よく分かりません)。ので ハンスリックとの比較も 残念ながら ままならないでいます。留意してまいります。


 長くなってしまいました。一度読んでいただけたらあとは 読み流してしまってください。