caguirofie

哲学いろいろ

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五七調と四拍子:歌垣
 ○ 怒(ヌー)族掛け合い歌「怒江情歌」中国・雲南省 NU people 's song
 
 
 ○ (説明) ヌー江の最上流部の丙中洛の入口の土産物店の女性が織物の実演販売をしていた。ヌー族­に伝承されている男女の掛け合い歌「怒江情歌」だ。日本の万葉集にある歌垣との関連も­指摘されている。弓奏楽器合いの手をいれているのは、たまたま通りかかったタクシーの­運転手が即興で参加した。少数民族の歌の豊かさを実感する。2007年。

nyan_nyanko 2015/03/13 18:55

 こんばんは

 誠に申し訳ございません。
 
 今回は、ご教示いただきたく、投稿させていただきました。


 ”記紀歌謡”で検索したのですが、以下の記載が見られました。このことは、goo辞書におきましても”歌体は片歌(かたうた)から長歌までさまざまだが、定型・五七調はまだ成立していない” とございました。

古事記』と『日本書紀』とに収められている歌謡。重複するものを除くと、約百九十首がある。上代人の日常に根ざした素朴な感情が、明るく率直に歌われている。歌体が定まっていないのは、和歌の発生以前の姿をとどめているもので、総じて民謡風のものである。
引用:Weblio 古語辞書 から
http://kobun.weblio.jp/content/%e8%a8%98%e7%b4%80%e6%ad%8c%e8%ac%a1


 そこでなのですが、これらの内容は通説としてございますでしょうか?

 また、日本書紀古事記、そして万葉集の時代区分等はほとんど同じ頃と思っておりましたが、実際は異なるものなのでしょうか?



 誠に恐縮でございますが、ご教示賜わりたく

bragelone

 1. 記紀歌謡の時代区分につきまして 詳しくしらべたことはありませんでした。
 2. 一般に 万葉集は 歌人が分かっている場合――そして詠み人知らずであっても 万葉集の撰修の時代にうたわれたものを取り上げていると分かっていると思います―― だいたい撰修の時代かそのいくらか以前の時代のものだというかたちだと思います。
 3. ということは 古い時代の歌と言えば たしかに記紀歌謡がそうである。ということになっています。
 4. たとえば 意味が取りがたかったり 言葉じたいがふるいと思われるものであったりするからです。
 5. あるいは とにかく撰修の時代において これはふるいという感覚があるということだと思われます。この歌は 何々風だとかの解説がついていたりするからです。
 6. それと 一般的に言って 物語の中で たとえばスサノヲが歌った歌だと説明されていても それは ちょうどふさわしい歌があるのでそこに持って来たというように捉えられています。(そういう解説を学者はしています)。
 7. 久米歌が 具体的にわれわれの問い求めにおいても出て来ました。これなども 意味を取りづらいものと見られます。
 8. ▽(ヰキぺ:旋頭歌) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%8B%E9%A0%AD%E6%AD%8C


  § 1 旋頭歌の例
  
 『古事記』では伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)と大久米命(おほくめのみこと)との問答として次の歌が収録されている。〔*bragelone:これは 求愛の掛け合いですね。大久米は ヒメを見初めた神武カムヤマトイハレヒコの代理として話をしている。〕


  〔ヒメ:〕胡鷰子鶺鴒 千鳥ま鵐 など黥ける利目 (一八)
  あめつつ ちどりましとと などさけるとめ

  〔大久米:〕媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目 (一九)
  おとめに ただにあはむと わがさけるとめ
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 《黥ける利目》は 目の周りを縁取ってあざやかにしたもの。入れ墨とも言われます。
 ところが 入れ墨は 魏志倭人伝には倭人がしていたと言いますが 記紀万葉の撰修のときには めづらしかったので 時代の違いが見られるようです。


 ▽ (ヰキぺ:入れ墨)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E3%82%8C%E5%A2%A8#.E4.B8.8A.E5.8F.A4.E3.81.BE.E3.81.A7


 9. もっともこの歌が出て来るのは 神武カムヤマトイハレヒコのくだりであり 原文からは紀元前660年ごろですが実質的には 三世紀ごろと見られています。つまり 入れ墨をしていてもおかしくないとは考えられます。魏志倭人伝の伝える卑弥呼邪馬台国が三世紀です。
 10. ふるい歌が引かれていると分かります。

natural 2015/03/13 20:06

お久しぶりです、ぶらじゅろ〜ぬさん、にゃん×2さん。


この歌は、日本の漁師や船頭さんの歌、
あるいは盆ダンスの曲にも似てますね。


布を織りながら歌ってるのね。
その作業の動作にぴったり!のような。


あしたも朝から仕事なのでもう寝ますおやすみ。

bragelone

 お早い就寝ですね。

  
 盆踊りですか。
 何だか歌っていないかのように平然と歌っていますね。
 ということは 曲としてだけではなく 生活の場ですでに 節がついている場合がある。何だか奥深いですね。


 おやすみなさい。

nyan_nyanko 2015/03/13 22:07

 bragelonne様、neutral様、こんばんは

 解説賜わりましたこと、厚くお礼申しあげます。


 万葉集はおおよそ6、7世紀ぐらいまで遡れるのですね(逆に申しますと、それ以降の歌になる・・・)。
 そして、古ければ意味が取りにくかったり、言葉が古いこともあり、それと判明しうる、のですね。
 確かに、お示しいただきました”旋頭歌”は、意味が取りにくいと感じられました。神武天皇のときですので、一世紀頃まで遡れる可能性があるのですね。

bragelone: はい そうだと思います。


> 「古い時代の歌と言えば たしかに記紀歌謡がそうである。ということになっています。」


 どうも、ありがとうございました。

 もはや、日本語の成立とも無関係ともいえない、との考えから、ご質問させていただいた次第でございます。

bragelone: 日本語への形成からその成立については むつかしい論点があると思います。一口では言い難いところがあると考えます。

 この場をお借りし、厚くお礼申しあげます。



 以下の参考文献から引用して考察されているサイトがございました。

・[先日ご紹介させていただきました] 渡部 涼子、小磯花絵 「五七調・七五調のリズム知覚に関する予備的研究」 言語処理学会 第20回年次大会 発表論文集 (2014年3月)
・坂野信彦著「七五調の謎をとく 日本語リズム原論」大修館書店
・別宮貞徳著「日本語のリズム 四拍子文化論」講談社


サイト:佐藤栄作 五七五論序説3 「俳句は四拍子なのか」から
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_34.html


 今日では、実験的な手法(エビデンス主義的手法?)を用いた検討が盛んなように見受けられました。

 すみません。小生には少し荷が重く思われましたため、参考サイトのみ掲げさせていただくのみとなりました。



 それでは、失礼させていただきます。

bragelone

 次の参考文献は おもしろいですね。俳句のいとなみからの発言ですが 全体的な視野に立つと思われます。
 ▽ 佐藤栄作:五七五論序説3 俳句は四拍子なのか
 http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_34.html

 2拍ずつをまず1つにするというリズムが介入したことで、8という枠ができ、7が4×2になるために、句末の休止が休拍に変化・変質せざるを得なくなった、そういう考え方はできないのでしょうか〔注4*1〕。 

 私は、4×2(2×4)の8拍構造すなわち四拍子の存在を認めます。おそらく中世以降はそれが主流となり、そして今や隆盛を極めているといえます。休拍の一つを潰して、六八六になっても、特に中七は八になっても、「4+4」ならば、(少なくとも川柳や標語では)何の問題もなく許容されています。しかし、俳句に「中八を嫌う」という感覚が残っているのは―あるいは七の後に休拍を置かずに五に進んでも何の問題もなく、むしろそうであることを求めることさえあるのは―8拍四拍子の奥にある七そのものの存在ではないのでしょうか。四拍子を認めつつ、五の後の休拍3拍というのは長すぎはしまいかと考え、事実そう感じるのは、休止は2拍でもいいからではないのでしょうか。


 四拍子の調子のよさを感じつつ、そうでなければならない、そうでしかない、ということに対する違和感は、五七五が、今も五は五、七は七であることを知っているからではないのでしょうか。五七五が六八六になってしまわないことを、休拍に頼らずに考えられないものでしょうか。

 ☆ 四拍子は 七五調と絶妙な組み合わせなのではないかとわたしも思います。
 五文字の句が先に来ると 一文字=一音の延びや縮みやあるいは休みが入らないと 四拍子にならないこと。そして休みだと三拍を入れて四拍X2で やっと二小節をつくることができること。があり 次の七文字の句につなげにくいように思われます。先に七文字で一休止を入れて 二小節をつくってしまうと あとは 五文字句について いかようにも四拍子に合わせることができるのではないかと考えられます。


 すなわち 七五調が四拍子にぴったり合うとするなら では何故先に五七調が万葉集などで出来て来たか? という問いが起きると思われるかぎりで 五七調は 全面的に四拍子ゆえに出来たとは 考えづらいように思われます。

nyan_nyanko 2015/03/14 16:34

 こんにちは



> (1) 音楽としてだけではなく生活のリズムとして四拍子が――たとえば歩くテンポとして二拍一組が二つ集まったとして――なじみやすく基調であったとしたら 歌を詠む(相聞が多いと思われます)ときにも 自然とそのリズムに合った定型として五文字と七文字の組み合わせが出来て来たと考えられる。


 基本的には2拍子、つまり、歩行や呼吸から来ているのかもしれません。そして2拍子と4拍子の違いは、単純に
・4拍子:4拍ごとに強く感じられる。
・2拍子:2拍ごとに強く感じられる。


 換言しますと、元は2拍子であっても、2小節ごとにその最初の音が強く感じられれば、4拍子となる訳です。

 そこでまずは、4拍子は2拍子から派生したという可能性は捨てきれないと考えられました。



> (2) その反論として:
 (あ) 三文字や四文字だと短すぎるというのは そのとき四拍子をつくると休止が長くなりすぎるのだという意味だと説くごとく すでに音楽の作品としてつくる場合を前提にしてしまっていないか?
 (い) つまりは 短い句と長い句とのひとまとまりという前提も 早すぎるのではないか? 歩くテンポの二拍一組を基礎とすれば 四四や六六あるいは休みを入れたいときには三七や七七といった二つの句の組み合わせもあり得るはずだ。


 三や四は問題なし、と考えられました(ただし、三三や四四は表現上不適かと)。
 また、六六あるいは、三七や七七も不適切でなはい、と考えております。
 


 そこで、以下、少しばかりの考察を・・・

 まずは表現方法の面から考えてみました。


(1) 表現からの考察
 間延びを防ぐためには、
1. 文字数はせいぜい8文字程度であろう。

bragelone: 休みを入れても八拍で 二小節ということですね。四拍子にしたがうなら。

 また、
2. 必ず、休止(区切り)が必要となってくる。従って、どこかに奇数の文字数としなくてはならない。

bragelone:なるほど。じつは この《休止(区切り)》が わたしにはまだすっきりとは身になじんでいないとは 告白しておきます。

 さらに、休止をおくことができる範囲が多い方が多様性が生まれる。つまり、表現の幅が広がる(一句切れ、二句切れ、三句切れなどです)。このため、
3. 両方とも奇数文字数とした方がいい。

 と考えましたが、当時の人たちはどのように考えていたのかがわからず・・・ この3は省かせていただきます。


 一方、
4. 三・三、三・四、三・五等は表現が狭まってきてしまうため、不適(いっそのこと、三・三→六、三・四→七、三・五→八にしてしまえばいいのですから)。

bragelone:そうですか。♪かごめ かごめ かごの 中の 鳥は♪ という三・三・三・三もあるにはあったのですが。もっとも伸ばし・縮みそして休みが巧みに使われているのでしょうね。


 ここまでで、ある程度までは、字数が限られてくるかと思いました。

 あとは、リズム感、心地よさ等の問題と思われました。


(2) リズム・快適さの面から
 渡部、小磯の両氏ような試験方法を用いて、被験者の快適さ・心地よさの結果を解析することにより、”リズムが持つ快適さ”と”文字数”との関連性が導かれるかと思います。
 無意識のうちに、リズムを感じ取っている、ことは、おそらく事実と考えております。

bragelone:それは 次のような検証事例があるようですね。参考文献に挙げていただいたところの:

佐藤栄作:五七五論序説3 俳句は四拍子なのか
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/blog-post_34.html


 「ゾウ」と「キリン」と「ライオン」と「マントヒヒ」とを、自分の好きな順に並べ替えよ、という指示の後、


 (1) 「ライオン」と「ゾウ」と「キリン」と「マントヒヒ」
 (2) 「ライオン」と「キリン」と「ゾウ」と「マントヒヒ」


 「この順番のとき、実は五七五になる」と種明かしするまで、ほとんどの被験者(受講生)は気がつきません。気が付いたとたんに、この二つ以外の順番、たとえば、


 (3) 「ライオン」と「マントヒヒ」と「ゾウ」と「キリン」
 (4) 「キリン」と「ライオン」と「ゾウ」と「マントヒヒ」


 などが、単なる単語の羅列と感じられるのに、五七五の二つだけは調子がいい、と多くの者が言い出します。その時のリズムが、おそらくは、


  ライオント・・・ゾートキリント・マントヒヒ
  ライオント・・・キリントゾート・マントヒヒ


 なのでしょう。気付いてしまうと、「「ライオン」と」の後にポーズを入れないわけにはいかなくなるという趣旨の発言をした被験者もいました。


 なのですが、歌(短歌、和歌)が四分の四拍子になっているというのには、少し勇み足のように思えることもありました。
 例えば、4/4ですと、1拍目を強く感じる必要がでてきますが、そのような感じをみんなが感じ取っているのか? 極論しますと、1/4ではないのか? と思えるところがあるからです。

bragelone:《強め》の問題ですね。まだ会得するまでには行かないのですが。


 すみません。五七調の由来は・・・ 難しいと感じられました。

bragelone:そのような感じがありますね わたしにも。特に 五文字のほうです。


 それでは、失礼させていただきます。

*1:註4:私は、七五調と四拍子とが連動しているのではないかと考えています。証明はまだです。七と五とが近づいてしまう2×4の四拍子は、五七の繰り返し(五七調)とは相容れないと考えるからです。2×4構造と七五調とは一体のものだというのが私見です。坂野1996(『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』)は、構造が変化したのではなく、和歌の「読唱法」が変化したと考えています。