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哲学いろいろ

たすてん音楽論集(1)

 昨年も書きましたし、今回も書きましたが、一つの美学を基準に、別の美学で書かれた音楽を評価してはいけません。夕べ、そろそろぶらげろさんのスレッドの準備を始めようかと思い、ハンス・ヨアヒム・モーザーの「音楽美学」を開いたら、私の言っていることと同じことが書かれていました。

 実用音楽美学の多くの失敗と誤謬は、ある民族、時代、芸術作品群、個々の名作に認められた原則と尺度を、本質的に違った制約の下に成立した他の多くの場合に写しもちいることによって起こるのであって、それらには、それぞれに適した独自な法則が見出されるべきであろう。


 それだから、たとえばシューベルトの大作は久しくベートーヴェン美学から一方的にゆがめて評価され、シューマンの作品はメンデルスゾーンの規則によって測られ、ブルックナー交響曲ブラームスの尺度から誤解された。


 結局すべての作曲家、そればかりでなくすべての個々の作品は別種の独特な音楽美学に従属している。――ワーグナーの“ニュルンベルクの名歌手”の言葉に従えば“人々は規則を作っては、その後それに縛られる”と。R.シューマンの言葉も同趣旨で、“しょせん原作者ほど作品を知るものはいない”と(ただしこの言葉は条件付き)。
(ハンス・ヨアヒム・モーザー 音楽美学 橋本清司訳 音楽之友社 7ページ)

ぶらじゅろんぬ見解

 音楽をも抽象的なかたちで捉えた議論ができるとすれば――個別の曲の理解のことなどなどは放っておいても議論に参加できるとすれば―― このひとつの結論については いろんな見方を――横からのごとくになったとしても――あたえることが出来るように思われる。

 1. いちばんの問題だと感じたのは 音楽を聞く《わたし》の美学は どうなっているのか? どこに位置するのだろう? である。


 2. ベートーフェン美学とかワーグナー美学とかいうのは 誰が言っているのか? 言っている人は 第三者なのだろうか? それは あたかも神のごとく中立・公正にして万人にみとめられる妥当な見解であると誰が保証するのだろう?


 3. 言いかえると ぶらげろ氏のベートーフェン美学とねむねこ氏のそれとは 別だと一般に考えられる。同じねむねこ音楽観も 歳とともに変わり得る。


 4. 《結局すべての作曲家、そればかりでなくすべての個々の作品は別種の独特な音楽美学に従属している》というのなら すべてはそれぞれがおのれの個別の美学を持つ。ことになりはしまいか。


 5. 原作者にしても それを創ったときとあとから振り返るときとでは その美学が違っているかも知れない。


 6. いったいどう捉えればよいのやら。・・・


 7. いえ。つまり ブラゲロ哲学としては 例の真善美の理論のもとで《われがわれに還る》キッカケとなるものということが 一般的に音楽の中にも要素として成っているという強引な解釈です。そういう音楽美学になります。これなら 一般性を持つのではないかと。

Tastenkasten 2015/02/12 00:47

時間が遅いので、簡単にコメントします。

>ぶらじゅろんぬ見解


これは、根本的な誤解ですが、予測していたことです。
実用音楽美学は、brageloneさんがおそらく最も気にしている音楽哲学、
音楽に対する哲学の立場からの解釈とは別の分野だと考えてください。

>ベートーフェン美学とかワーグナー美学とかいうのは 誰が言っているのか


複数、多数の音楽研究者、学者が、個々の作曲家の作曲技法を分析し、
その特徴をとらえたものです。
もちろん、研究者により多少の解釈の違いは出ますが、
最大公約数的な部分は、広く一般に認められる定説となります。
「一般」というのが誤解のもとになるなら、まずは「音楽界」で、
そして、それが一般に啓蒙され、理解されて、ということになります。
誰が保証するとかいうことではなく、長い音楽研究史の中で確定する解釈です。
例えば作曲を学習する場合、教科書には、ベートーヴェンの作曲技法が出ていて、それを学びます。
もちろん、ほかのたくさんの作曲家の技法も学びます。
技術と美学は違う話だろう、と思われるかもしれませんが、
それは、音楽の実践現場を知らない、哲学者の視点、発想であって、
実践的な音楽美学では、どういう技術を使って作曲するかが、即、美学的な問題となります。
美学が違えば、違う作曲技法を使って作曲することになります。
ですから、

>ぶらげろ氏のベートーフェン美学とねむねこ氏のそれとは 別だと一般に考えられる。同じねむねこ音楽観も 歳とともに変わり得る。


というのは、哲学的、思想的観点であって、
楽家や音楽研究家が美学という言葉を使って話をする時とは、
立場も視点も異なるので、問題になりません。

>《結局すべての作曲家、そればかりでなくすべての個々の作品は別種の独特な音楽美学に従属している》というのなら すべてはそれぞれがおのれの個別の美学を持つ。ことになりはしまいか。


その通りです。そして、それが音楽研究においては自明な前提となります。
哲学の場合は、個々の問題を超えて、すべてを包括できる美学を構築することに目標が置かれるのではないですか。
しかし、残念ながら、そういうものは、音楽家にとっては第一の問題ではないのですよ。
楽家にとっての「自分の美学」というのは、自分の作品創作や演奏などの実践に関することで、
他人の作品や演奏に対して適用するものではないんです。
そして、美学にはある程度幅を持たせないと、
自分の美学に合わないものは認めない、ということになりかねません。
作曲家は、新しい作品を書くごとに、新たな美学を考案します。
でないと、すべての作品が同工異曲になってしまします。
ですから、「すべてはそれぞれがおのれの個別の美学を持つ」という前提です。
したがって、

>原作者にしても それを創ったときとあとから振り返るときとでは その美学が違っているかも知れない。


というのも、全く当然で、美学は、一つの作品を書き上げたときにそこで完結します。
もちろん、時には、以前の美学に不備を感じ、過去の作品を書き直すということもあり得ます。
しかし、基本的には、芸術家には、それぞれの時期にはそれぞれの完成がある、と考えないといけません。
音楽かに限らず、芸術家の中には、過去の作品をいじってダメにする人もいますので。

>個別の曲の理解のことなどなどは放っておいても議論に参加できるとすれば


楽家、および、音楽に深い理解がある聴衆から見ると、
これは、目くそ鼻くその音楽談義に堕してしまう恐れがあると感じます。
たとえ、どんなに意味が深そうな観念的な言葉を使って話をしてもです。
ねこさんとのやり取りは、あくまでも音楽の枠内でのことでした。

bragelone 2015/02/12 09:04

 たすてん先生 ありがとうございます。

 《実用音楽美学》。これは 《美学》と名乗っていますが そうしますとわたしの感覚では 言ってみれば作家にとっての《文章作法》のような分野になるでしょうか。

 主題とその展開 作品の心 これらとは 直接にはかかわっていないところの基礎的な要素でしょうか。

 画家の場合も 銀砂子を絵具として使うと 銀は時とともに黒く変色するそうです。ということで それもひとつの技法であるといったかたちの作画方法の問題 これに相応していましょうか。


 ただしです。上のことを理解した上で ただしです。
 文章作法も作画技法も 結局において出来上がった作品全体にとって 或る種のかたちで美学や哲学の要素にもなる。

 そこらへんのところを おそらくわたしには 作曲技法が分からないからには 理解して知ることが出来るかどうか。だと思います。

bragelone 2015/02/12 10:01

 音楽の技法と美学とについておぎないます。


 たとえば小説の技法として ふたつの主題あるいはふたりの主人公を 一章ごとに交互にあつかって物語を展開する。
 最後には ひとつの同じ場で合わさることもあるかと思いますが この技法じたいは 美学や思想には関係しない。けれども 作品全体としての出来には やはり何がしかかかわって来るかに思われる。

 
 あるいは いくつかの主題を持っていて・またはひとつの主題を見る角度をいくつか持っていて その主題や視点を 初めから徐々に打ち出し展開していくわけですが そのとき 第一の主題・視点を 第二の主題・視点を描くときにも ちらっと顔を出すかたちを取る。第三のときにも第四のときにも 第一や第二やの視点が顔を出すようにする。


 つまり 対位法でしょうか。そしてこの手法が 作品全体の良さ悪さに結局のところかかわって来る場合もあるかに思われます。


 そこらへんの事情――楽屋裏と舞台の上との関係のような事情――が 知りたいと思うところです。


 注文の多いレストランですみません。 

Tastenkasten 2015/02/12 22:43

なんか、濃い話をしていらっしゃいますね。
某氏のいつも同じ回答については、私も以前から不思議に思っておりましたが、
科学のことはわかりませんし、いったいどういう人なのかと思っていたのでありました。
つい最近の回答を読んで、えっ、と思ったのですが、brageloneさん自身が「ええーっ」とコメントにお書きになっていました。
結局は不可知論者で、実は何も語っていないことに本人は気づいていないのですか。ねこさんの説明で腑に落ちました。


さて、私の方の話なのですが、

>《実用音楽美学》。これは 《美学》と名乗っていますが そうしますとわたしの感覚では 言ってみれば作家にとっての《文章作法》のような分野になるでしょうか。

>主題とその展開 作品の心 これらとは 直接にはかかわっていないところの基礎的な要素でしょうか。


文章作法、ですか。ちょっと違うと思いますね。「主題とその展開、作品の心と直接かかわっていない基礎的な要素」とまで言ってしまうと、
「美学」=「技術」になってしまう。これは違いますね。
創作家というのは、文学、音楽、美術の別なく、作品を通して表現したいことがあるわけですが、
生涯をかけて伝えたいメッセージ、テーマもありますし、個々の作品ごとに違うテーマを持つこともあります。
自分が表現したいことと、作品の表現の「様式」は密接な関係にあり、
使用する技術、技巧は、その様式を実現するのにふさわしいものでなくてはなりません。
何をどう表現したいか、そのためにはどういう様式がふさわしいかを追求するのが、個々の創作家の創作美学になります。
そして、そのためにはどういう技術をどう使うか、あるいは、誰も考えたことのない技術を自ら開発するか、という課題に向き合うことになります。
ですから、


> 文章作法も作画技法も 結局において出来上がった作品全体にとって 或る種のかたちで美学や哲学の要素にもなる。


というより、技法は美学の前提と言いますか、自己の美学を実現するためには、独自の技術を持つことが必要不可欠になります。

>たとえば小説の技法として ふたつの主題あるいはふたりの主人公を 一章ごとに交互にあつかって物語を展開する。

>最後には ひとつの同じ場で合わさることもあるかと思いますが この技法じたいは 美学や思想には関係しない。


そうでもないんですよ。演劇でも映画でもいいのですが、西洋の伝統的な形としては、
対照的な人物が登場して、そのからみで物語が進行する。ハリウッド映画だって、そういう設定が多いのではないでしょうか。
音楽でいうと、ソナタ形式と呼ばれる楽曲では、性格を異にする二つのメロディー乃至動機が、
第1主題、第2主題として順番に提示され、それをもとに曲が展開されていきます。
対立的な要素が拮抗することで、ドラマが展開する、それを、弁証法的、ととらえることができます。
展開ののちに、対立する要素が再現され、最初の提示の時とは違う次元に昇華して、ジンテーゼに達した、という解釈もあると思います。
西洋では、ジンテーゼは大事ですからね。でも、彼らの解釈もあまりあてにならないんですよ。
私が、日本の伝統音楽の技法を応用した作品を発表したときも、ある人は、東と西が、ジンテーゼに達することなく、そのまま提示されているというようなことを書き、
また別の人は、東西の見事なジンテーゼがある、と言ってくれました。
まあ、私は東洋人なので、ジンテーゼがあってもなくてもあまりこだわりはないのですが、
音楽をこのように哲学的に解釈しようとすると、時として滑稽な結果になります。
アドルノの音楽論などを少しみても、何やらわけのわからないことを書いているな、という感じですかね。

>つまり 対位法でしょうか。そしてこの手法が 作品全体の良さ悪さに結局のところかかわって来る場合もあるかに思われます。


対位法は、作曲技法のひとつにすぎません。対位法のほとんど存在しない作品もあります。
対位法というのは、複数のメロディーを同時に演奏してもちゃんと合うように作る技術のことですが、
重ね合わせるメロディーの数が増えるほど、技術的には困難になります。
また、聞く側にとっても、本来人間の耳が同時に認識できるのはニ声までと言われ、その場合も、一方が主で、他方が従属的となるのが普通です。
三声、四声、またはそれ以上の複雑な対位法の技巧を使うことによって表現できることもありますが、難解にもなりよ水です。
ニ声の簡潔な対位法で、見通しの良い立体性を目指すか、あえて複雑にするかは、作曲家ひとりひとりの美学によって決まるわけです。
対位法の技法を使わない、という選択も、当然あり得るわけです。
現代の音楽ならば、メロディーを排して、ハーモニーだけで勝負、とか、音色だけで勝負、と言う作品もあるわけです。
絵画でいうと、風景画を描く場合、画家は、単に目の前の風景をコピーするのが目的ではなく、
風景の中の真実を、自分の視点からつかみ出して表現するわけです。
その場合、古典絵画のように、写実的な描画技法でその真実に迫ろうというのが一つの美学なら、
印象派のように、細かい描写よりも、全体の印象をつかむことで、空気や空間、光や影、無常といった真実を掴み取るというのも、また一つの美学であるわけです。
対照の真実を捉えるためには、どういう態度で臨むか、どの技法をとるか、というのが、創作家の美学的思考ですね。

>そこらへんのところを おそらくわたしには 作曲技法が分からないからには 理解して知ることが出来るかどうか。だと思います。


むしろ心配なのは、BGMとしてお聞きになることが多いということです。
今日は、このブログへの書き込みをしてしまいましたので、「音楽って何のためにあるの」のスレッドの回答を書き始めることができませんでしたが、
今回は、たくさんの例を聴いていただくために、音楽のリンクをたくさん貼っちゃいますよ。

bragelone

 のっけから揚げ足取りみたいになって恐縮なのですが:
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  > 文章作法も作画技法も 結局において出来上がった作品全体にとって 或る種のかたちで美学や哲学の要素にもなる。

 というより、技法は美学の前提と言いますか、自己の美学を実現するためには、独自の技術を持つことが必要不可欠になります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわちここで《独自の技術》とおっしゃっていることは 最初の実用音楽美学のところでは 次のように表現されていました。
 ★★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 複数、多数の音楽研究者、学者が、個々の作曲家の作曲技法を分析し、
 その特徴をとらえたものです。
 もちろん、研究者により多少の解釈の違いは出ますが、
 最大公約数的な部分は、広く一般に認められる定説となります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ すなわち 《自己の美学を実現するためには》 多くの創作者にとって共通の技法の中からよいものを取り出しそれ〔ら〕をどのように用いるかとしての《独自の技術》だと思うのです。


 すなわち 
 (1) 部品としての要素技法を選択する
 (2) 美学の前提を構想する
 (3) 要素技法の独自の取り扱い方としての用法をとおして美学実現をすすめて行く

 といった推測にはなるのですが。



 ★ 西洋では、ジンテーゼは大事ですからね。でも、彼らの解釈もあまりあてにならないんですよ。
 ★ アドルノの音楽論などを少しみても、何やらわけのわからないことを書いているな、という感じですかね。
 ☆ アドルノは確かに そんなに弁証法を当てはめなくてもよいのにと思ったところはありました。

 
 《ジンテーゼ》は でも西洋では一般に 必要なのですね。しかもそれが すべてではない・絶対ではないと採ってよろしいでしょうか?
 そして《この技法じたいは 美学や思想には関係しない》というよりは 《美学の前提としての構築》やすでに《作品全体をまとめようとするような独自の用法》にも成って行くのでしょうか?


 ★ ニ声の簡潔な対位法で、見通しの良い立体性を目指すか、あえて複雑にするかは、作曲家ひとりひとりの美学によって決まるわけです。 / 対位法の技法を使わない、という選択も、当然あり得るわけです。
 ☆ 対位法は 小説や論文の手法としてのそれを念頭において出しましたが つまりは音楽においても 対位法を使わない場合をふくめて 《作曲家の美学》にすでにかかわっているということですよね。



 ★ むしろ心配なのは、BGMとしてお聞きになることが多いということです。
 ☆ そうなんですか。音楽のリンクは ねむねこ氏の回答で慣れて来ていると思います。
 先日 BSのクラシック倶楽部で シューマンのピアノ五重奏を 《熱心に》聞くことを試みました。(鬼のごとき心で言うとすれば ちょっと単調でした。というより 教科書どおりの要点でまとめられているといったような。減らず口は 専売特許ですので)。

 うちの近くに名古屋音楽大学があります。浄土真宗系の同朋大学・高校と同じ経営だと思いますが これら三つは我が家と目と鼻の先にあります。
 こんどの日曜日に 学生たちが演奏する吹奏楽コンサートがあると言います。入場無料でおこなっています。
 一度だけ聞きに行ったことがあります。こんどのプログラムは 

   I. Bernstein: キャンディード序曲
   J.van der Roost: カンタベリー・コラール
   D. Holsinger: スクーティン・オン・ハードロック
   P. Sparke: オリエント急行
   A. Reed: アルメニアン・ダンス Part2
     etc.
   指揮:露木薫


 だそうです。

 ○ ここから2015-02-13 - caguirofie (たすてん音楽館)へつづきます。