caguirofie

哲学いろいろ

【Q:音楽・・・】が

締め切られました。
今朝6時に運営サポートからメールが来ていました。

昨晩 そのままに放っておいて就寝と相成りましたので ベストアンサーをえらべませんでした。
その点 たすてん先生にはすみません。

お礼欄が空白で残っていたら BAを選べるようですが 埋まってしまっています。
その点 うかつでした。

おつかれさまでした。ありがとうございました。
これに懲りずにまたおしえてくださいませ。

しつこいですが ディオニュソスの位置づけについてです。

アポロンは 竪琴の名手ですから音楽として話をします。
もし二つの型をみとめるのなら けっきょく


 コスモスとしての音楽
 カオスとしての音楽


これら二つの種類の音楽が 同じ次元で並び立つということになります。
アポロン型の音楽とディオニュソス型の音楽と 二つあることになりませんか?
それは おかしい。

 
  コスモスとしての音楽の中に 日常性の仕事のリズムを離れたり
 あるいは日常性そのものから離れるという別のヱクトルをもった動きがある。


というだけのことだと考えられるのです。
ディオニュソスをどうしても出したいのだとすれば ハレのマツリの中におけるどんちゃん騒ぎ これの原動力といったものに限られるのではないでしょうか。でも それも アポロンの内にある一つの種類の推進力であると見たほうが 理論としては 素直ですしすっきりすると考えます。

Tastenkasten 2015/02/22 15:36

こんにちは。

>コスモスとしての音楽
>カオスとしての音楽
>これら二つの種類の音楽が 同じ次元で並び立つということになります。
アポロン型の音楽とディオニュソス型の音楽と 二つあることになりませんか?
>それは おかしい。


やはりこの部分が残りましたか(笑)まだ十分伝わっていなかったようです。
brageloneさんは、まだ言葉の「原義」の方にとらわれていらっしゃいます。
あるいは、ニーチェの用語の方でしょうか。
現代の音楽美学では、もう、哲学用語としてではなく、音楽用語として、次のような概念で使うと思います。


アポロン的・・・古典的主義的で淡白なアカデミー色
ディオニュソス的・・・ロマン主義における音楽の有情化と情緒、標題性(文学的内容)


コスモス、カオスという意味はもはや含まれないと考えた方がいいでしょう。
わかりやすく言うとこういうことです。音楽には、形式があります。
詩でいうと、定型詩の場合、一行の長さ、シラブル数が決まっています。
それが、決まった行数でひとまとまりになり、押韻の規則による呼応を伴って、節としてのまとまりが成立します。
その節がさらに複数組み合わされていきます。
古典的な音楽にも、そういう形式的秩序があります。
その場合、各部分の長さが一定になるので、シンメトリックな構造が基本となります。
(古典派によって確立されるので、バッハなどはそういう構造になっていません。)
そういう形式を基本的にはずれないのが、古典的形式主義です。
文学的な内容を持たない絶対音楽は、これを理想としたわけです。


しかし、ワーグナーは、文学、音楽、美術の総合芸術としての「楽劇」を考えだしました。
器楽だけによる標題音楽もそうですが、オペラとなると、さらに具体的な描写が必要となります。
登場人物が精神的に混乱している情景、敵味方入り乱れて戦っている情景などを音楽で描写しようとした場合、
古典的でシンメトリックに整った形式では表現しきれません。
また、ロマン主義的なテーマとして、永遠のあこがれとか、満たされない愛とか、情熱、渇望、放浪など、
古典的な形式主義の方法では扱えない要素がたくさん出てきます。
たとえば、ワーグナーが発明した作曲法の一つに、「無限旋律」というものがあります。
シンメトリックな構造を全く持たない、書き始めたらどんどん先へ伸び、発展し続ける旋律です。
ハーモニーに関しても、古典派で中心となる、「不協和音」から「協和音」への解決を繰り返すのではなく、
「不協和音」を連続して、解決を先延ばしにするなどの方法がとられます。
これなら、永遠のあこがれとか、渇望といった内容を、直接に表現できます。
こういう技巧を「ディオニュソス的」ととらえたのです。
もちろん、全曲通してそういう技法だけ、ということはありません。
情景によっては、秩序ある構造の方がふさわしい場合もありますので。


今言ったのは、ワーグナーの場合の例で、ほかにもいろいろな形があり得ます。
ですから、たとえばモーツァルトですが、普通は古典主義の作曲家とされていますが、
ロマン主義の作家で作曲家だったETAホフマンの音楽批評では、
モーツァルトはむしろロマン的な作曲家とされていました。
その後も、基本的には、モーツァルトをあくまでも古典主義の枠内でだけ解釈する人が多かったのですが、
ヘルマン・アーベルト(1871−1927)という音楽学者が、徹底的な研究の下に、モーツァルトに関する大部の伝記を書き、
モーツァルトにおける悪魔的、ディオニュソス的側面を明らかにした、とされています。
(ただし、アーベルト自身は、自分を、モーツァルトディオニュソス的イメージの発案者とみなされることを拒否したということです。)


アポロン的」、というのは、別の見方をすると、教科書的、優等生的、保守的、アカデミック、という欠点にもつながります。
ディオニュソス的」は、それに対応して、革新的、独創的、という、芸術において常に追求されるべき目的にもつながります。


同じ一つの曲の中に、シンメトリックな古典的構造と、それを破る構造の部分があれば、ドラマティックな変化が生まれます。
ですから、共存してもおかしくはありません。
また、一人の作曲家の造作態度としても、両方の美学の間でバランスを取ることが大事になります。
ただ、教科書的な作曲の方が時間もかからず楽ですし、それを破るのには高度な技術と、また勇気も必要になりますので、そこに踏み込めない人もたくさんいます。
そういう人は、下手をすると、救いがたい非個性に埋没して、消えていきます。
これまでたくさんの作曲家の作品を研究してきましたが、
有名になって歴史に残る作曲家と、そうでない作曲家の作品の質の違いは、その辺の違いにも起因していることが多いです。

bragelone

こんにちは。
1. 分かりました。ことは 音楽プロパーの領域に移行している。ということですね。
2. そこで 何かと便利と思われたゆえにでしょうか アポロン的とディオニュソス的との二項対立で説明する仕方が ただし基本的にニーチェとは別様に 採用された。
3. しかも別様であっても 似ている部分があるから ニーチェ説はなお残っている。
4. そうですね。まづ 過去のものとなったのですが 確認としては 《カオスなる契機は あくまでコスモスなる全体の中ではたらく》という命題。言いかえると カオスは アポロンの中にじゅうぶんあるという命題。
5. もし聞かん坊として発言するなら

アポロン的・・・古典的主義的で淡白なアカデミー色
ディオニュソス的・・・ロマン主義における音楽の有情化と情緒、標題性(文学的内容)

についても 《情緒も文学》もアポロンがじゅうぶん持ち合わせているという命題。
6. 同じくですが

アポロン的」、というのは、別の見方をすると、教科書的、優等生的、保守的、アカデミック、という欠点にもつながります。
ディオニュソス的」は、それに対応して、革新的、独創的、という、芸術において常に追求されるべき目的にもつながります。

というとき デルポイの神殿を《革新》したのは アポロンであり アポロンは誰もできなかったとすれば《独創的》ですし 伝統にもとづきつつあたらしい息吹きを《常に追求する》推進力を象徴するものと考えます。
ディオニュソスは ハレのマツリにおけるどんちゃん騒ぎ専門だと考えられます。 
言いかえると 確かに《教科書的、優等生的、保守的、アカデミック》という側面をもアポロンが持ち合わせています。革新のあと そういう伝統を築いたのだと見ます。むろん その息吹きが薄れて行けば 旧習の弊害をまねくようになります。しかもこれを突き破るのは 同じくアポロンであると考えます。
言いかえると ディオニュソスは 保守でも革新でもなく いづれもどうでもよいとして ただただバカ騒ぎをする専門でしょう。または 秘儀を擁し 秘密結社をつくるのが せいぜいのチカラでしょう。
7. ですから きびしいことをもはや承知で言います。
 ★ また、一人の作曲家の造作態度としても、両方の美学の間でバランスを取ることが大事になります。
 ☆ たとえば《守破離》という思想に立つなら 《二項対立》ではなくその《バランス》の問題でもない。と少なくとも哲学からは考えると思うのです。伝統の一筋の中から あたらしい息吹きが現われる。のだと思います。
 どうでしょう。

Tastenkasten 2015/02/22 15:36

夕べ、時間を過ぎても締め切りにならなかったので調べたところ、
二週間ごと四週間後にメールが送られると書いてありました。
それで、延長が可能なのかと思っていましたが、やはり四週間で終わりなのですね。
今日まだ投稿可能だったら、もう少し音楽のリンクでも張ろうかと思っていました。
最後に御紹介したもののうち、ブルガリアノルウェーの音楽は、
むかし民俗音楽をよく聞いていた時期に特に好んで聞いていたものです。
ガムランやケチャはあまり聞きません。ヨーロッパのものが好きです。
ほかにもいいものがあるのですが、Youtubeではなかなか見つけられないので、
すぐに見つかるものだけ御紹介しました。そのあとの曲は、私の愛聴曲です。
「タリスの主題による幻想曲」は、16世紀イギリスの作曲家、トーマス・タリスの旋律を使った曲です。
「富める人とラザロ」は民謡をもとにした作品です。
素朴なメロディーに、色彩豊かな近代的なハーモニーをつけた、独特の雰囲気の曲です。
ヤナーチェクボリス・チャイコフスキーは、いわゆる天才肌の作曲家です。
このように、湧き出る楽想を自由奔放に展開できる作曲家はまれで、
こんな風に書けたらと思います。小手先の技術では書けない音楽です。
ヤナーチェクは、大器晩成型の作曲家で、この若々しい「シンフォニエッタ」は、70歳を超えてからの作品。
ボリス・チャイコフスキーは、現代の主流の様式とは違うので、なかなか有名にはならないのですが、
同年代のロシアの作曲家と比べても群を抜いていると思います。
シベリウスの曲も紹介したかったのですが、時間が足りませんでした。
Youtubeで、「Jancek」「Boris Tchikovsky」「Sibelius」を検索すると、たくさん聞けますので、探して見てください。
あと、私にとって重要な作曲家は、やはりマーラーです。
死の直前の、未完に終わった第10交響曲の第1楽章だけ追加で御紹介しておきます。

 ○テンシュテット指揮:マーラー:第10交響曲よりアダージョ(1983年ライヴ)
 

 ☆ 本格的な交響曲って感じ。というのが 素人の持った印象ですね。

あと、御紹介するつもりだったのは、ショスタコーヴィチの晩年の弦楽四重奏曲です。
深みのある内容から、しばしば「哲学的な作品」と形容されるものです。


弦楽四重奏曲第13番
https://www.youtube.com/watch?v=PDrS_2lJdk0
 ○ Emerson String Quartet: Shostakovich, Op. 138 No. 13 in B-flat minor (1970)


 Dmitri Dmitriyevich Shostakovich (25 September 1906 - 9 August 1975)
 お父さんも ドミートリ。


 なんでこんなにおとなしい音なの?


 次の曲:Emerson String Quartet: Shostakovich, Op. 144 No. 15 in E flat minor (1974)
 同じような印象。

 でも Excellent ! とか グラミー賞を取ったとか。らしい。


弦楽四重奏曲第15番
https://www.youtube.com/watch?v=AxQkpH1JDk0

Tastenkasten 2015/02/22 15:37

内容の深みということでは、やはり、ベート−ヴェンの晩年の弦楽四重奏曲は絶対にはずせません。
正直言うと、ベートーヴェンは、交響曲より弦楽四重奏曲の方が好きなんですよ。


弦楽四重奏曲第12番

弦楽四重奏曲第14番
https://www.youtube.com/watch?v=ti9Iib-Z1ug
弦楽四重奏曲第15番
https://www.youtube.com/watch?v=J2oCixqdyCY

 ○ Beethoven String Quartet No 12 Op 127 in E flat major Alban Berg Quartet
 ☆ アルバン・ベルクって聞いたことがある。
 やさしい音色だけれど 複雑ですよね。


 ○ Beethoven String Quartet No 14 Op 131 in C♯ minor Alban Berg Quartet
 ☆ 何だかデリケートですね。


 ○ Beethoven String Quartet No 15 Op 132 A minor Alban Berg Quartet
 ☆ いちばん複雑 ! 元気が出た模様でもある。

Tastenkasten 2015/02/22 15:38

日本の現代作曲家も少し。


声明を使った、非常に有名な曲です。ただし、私は必ずしも高く評価していません。
黛敏郎 涅槃交響曲
https://www.youtube.com/watch?v=IUnAHyZD_d4

 ○ 黛敏郎追悼コンサート:涅槃交響曲
 ☆ 読経までが入っています。

次は、私の日本での師匠の一人で、日本でもっとも重要な作曲家の一人です。
最初は「東洋」ということをずっと強調していましたが、遠藤周作の「沈黙」をオペラにしたあと、カトリックに入信したようです。「阿知女」は、神楽歌をもとにした、原初的、呪術的な作品です。


松村禎三 阿知女
https://www.youtube.com/watch?v=bBizY2ubxD8

 ☆ 西も東もそしてあるいは北も入っているみたい。と同時に 必ずしも日本的に感じるわけでもない。
 次に何が出て来るかと期待をいだかせる。けれども 一たん切れたところで ひとつの世界だという点を決めて欲しかった。シンバルで決めるのは 休止という意味ですよね。こういう世界だという印象をあたえて欲しい。

松村禎三 ギリシヤに寄せる二つの子守唄〜第2曲
https://www.youtube.com/watch?v=IbQYgfH2QDU

 ○ 松村 禎三/ギリシヤに寄せる二つの子守唄(2/2)/演奏:泊真美子
 ☆ こういう小品が好きですね。音もきれいで。
 例によって 言いたい放題でした。

ほかにも。リグ・ヴェーダに作曲したものなど、ユニークな作品があります。

Tastenkasten 2015/02/22 15:38

最後に、スレッドに張れなかった、参考文献のリンクです。


Paul Moos: Moderne musikästhetik in Deutschland
https://archive.org/details/modernemusiksth00moosgoog



Tobias Robert Klein (Hg.): Klang und Musik bei Walter Benjamin
http://www.academia.edu/8068334/Tobias_Robert_Klein_ed_Klang_und_Musik_bei_Walter_Benjamin_in_Die_Tonkunst_3_2014_447-8



Roland Barthes: IMAGE MUSIC TEXT
http://dss-edit.com/prof-anon/sound/library/Barthes__Roland_-_Image_Music_Text.pdf


ヘーゲルの音楽美学の原文、英訳もありますが、御存じですか。


では、これで仕事に戻ります。当分お休みです。

bragelone 2015/02/22 16:20

 ★ ヘーゲルの音楽美学の原文、英訳
 ☆ をぜひ おしえてください。

bragelone 2015/02/22 16:22

 《お休み・お仕事》ということで あとは質問は無しとさせていただきます。
 アポロンのみ ひとことお願いできますか?

Tastenkasten 2015/02/22 18:37

次の仕事が待っているので、これで本当に最後ですよ。


>もし聞かん坊として発言するなら


というか、お話ししたことが全部無駄になっている。
brageloneさんは、あくまでも哲学の領域にとどまりたいのであって、
言葉の原義へのこだわりから自由になれないのですよ。


デルポイの神殿を《革新》したのは アポロンであり アポロンは誰もできなかったとすれば《独創的》ですし 
ディオニュソスは 保守でも革新でもなく いづれもどうでもよいとして ただただバカ騒ぎをする専門でしょう


ですからそれは言葉の原義、由来にこだわる、ということでしょう。
それがすでに抜け落ちて、別の意味に変遷したということですよ。
そういう使い方はあくまでも間違っている、認めない、という意味で「聞かん坊」なのですか。
悪くとると、ペダンチズムになってしまいますが、こう言うと、「瞬間湯沸かし器」が湧きますか(笑)。
どうしても、というなら、音楽分野でのこの用語の使用を禁ずる以外、方法はありません。
そもそも、今回のスレッドで、多くの人がアポロンディオニュソスという語を使っていることがわかったので、仕方なく使ったようなところもあります。
そういう言い方があるのは何となく知っていましたが、あくまでも学問の分野のことで、
演奏家や作曲家など、実践的な音楽家がそういう話をすることはまずありません。
実践、訓練、経験に膨大な時間を必要としますので、観念的議論をしているわけにはいかないんですよ。
もしそういうことに触れることがあるとしても、警句的に、ヒントとして、というぐらいにとどまります。
ですから、


>ですから きびしいことをもはや承知で言います。


は、痛くも痒くもないです(笑)。「哲学から考えると」ですよね。
守破離」という言葉を使うとまたややこしくなりますが、どうしてもということなら、



基礎的な技法、オーソドックスで、基準となる技法、広く音楽全般に共通する音楽文法を学んだり、古典の模倣などを通じて、基本をたたきこんだりする段階。



自分独自の表現を求めて、新しい試みや実験をする段階。「守」で得たこととの間で悩み、時として、長いトンネルになる。



何十年の経験ののち、二項対立を乗り越え、独自のバランス感覚を発見し、それを「統一された様式」にまで磨き上げる段階。
ここに達すると、細かいことへのこだわりが消え、本当の自由を得る。


思い上がりのように聞こえるかもしれませんが、私は、自分の仕事に関しては、「離」に到達していると思います。
でなければ、佐村河内(何度も名前を出しますが)の「広島交響曲」をたった30秒かそこら聞いただけで、にせものと見破ることはできないんですよ。


ヘーゲルのドイツ語原文の出ているのは、下のサイトです(音楽の章のリンクを張ります)。
http://www.textlog.de/5779.html


先日、上のリンクがつながらなくなったことがあり、その時は下のサイトで読みました。旧字体です。
(現在、こちらの方がメンテナンス中でつながりませんので、下のリンクが正しいかどうか確認できません。英語訳も同じサイトです)


ドイツ語版
https://archive.org/stream/bub_gb_bcIpxaBwfMUC#page/n193/mode/2up


英語版
https://archive.org/details/hegelsaesthetics00kednuoft

Tastenkasten 2015/02/22 18:38

ついでですので、下のサイトもお教えしておきます。


Projekt Gutenberg ヘーゲルのページ(ドイツ語)
http://gutenberg.spiegel.de/autor/georg-wilhelm-friedrich-hegel-253


Zeno.org ドイツ語の哲学書
http://www.zeno.org/Philosophie/W/Inhaltsverzeichnis


The Online Books Page ヘーゲルのページ(各国語)
http://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/book/lookupname?key=Hegel%2c%20Georg%20Wilhelm%20Friedrich%2c%201770%2d1831

bragelone

 ★ 演奏家や作曲家など、実践的な音楽家がそういう話をすることはまずありません。
 ☆ あっ。そうなんですか。ぢゃあ 哲学や思想の分野での問題になります。
 《楽理》という言葉をも出されたものですから 音楽においても哲学の言い方を踏襲しているのかなと思いました。


 《守破離》も納得しました。不平不満はありません。


 こういう一点をつけ添えます。文句ではありません。
 つまり 哲学と言っても 守破離で一本の――伝統的な――系譜をすすんで来て 実際問題に出くわしたときには 最後の最後まで自分の《守破離》の線(理念のごとき)で相手との話し合いをすすめますが 最後の最後では 相手との間で《バランスを取る》ことになるかも知れません。つまりは 早く言えば 足して二で割るような妥協です。


 ぎゃくに言えば たとえ弁証法的に対立が総合されるとしても 一人ひとりは それぞれおのれの一本の道をあゆむ。これしかないと思うわけです。それゆえに初めて妥協ということがあり得る。こう考えます。


 そう言えば ねこさんの守破離は どうなんですかねぇ。


 ヘーゲルは まぁ 英語から入りますが ありがとうございます。いろんなテクストがありますね。

natural 2015/02/22 19:34

こんばんは。
たすてん先生のご回答は52番まですべて
興味深く拝読しました。


こちらのコメ欄は
明日ゆっくり読ませていただきます。


わたしは、音楽はたいてい何でも好きなのですが、
こういう民謡が昔から大好きです。
これぐらい表情豊かに、気ままに、存分に、
はじけて崩してあるのが好きです。
曲を抱くように、あるいは
キャンバスに絵具の筆を走らせるように。
https://www.youtube.com/watch?v=vnQzS55suhI
○ ロンドンデリーの歌/アイルランド民謡(Londonderry Air (Danny Boy))


他には、これとかこれとか。
○ My Old Kentucky Home - The Robert Shaw Chorale 懐かしきケンタッキーの我が家
https://www.youtube.com/watch?v=_3xMQdu_k2k
○ 美しく青きドナウ ヨハン・シュトラウス
https://www.youtube.com/watch?v=_YL_4zslsKU
○ 梁塵秘抄熊野古道の幻想〜 福島弘
https://www.youtube.com/watch?v=PsEMWEdVPbs


ちっとも一貫性ないんだけど。(^_^;)


では明日のんびり読ませてもらいますので。
以下余白。

natural 2015/02/23 08:56

おはよう、ぶらじゅろーぬさん。


たすてん先生による、アポロン的・ディオニュソス的の定義はとても分かりやすいのだけど、やっぱそれを哲学あるいは人間の話にすると、「分けられない」と思うなあ。だいたいみんな「あいだ」なんぢゃないの?あ。最近の音楽もそうなのかな。「あいだ」なのは。


ねこさんの小説だと、セイラとクロウリーアポロン的で、風花がディオニュソス的のような気がするけど、でもセイラも血の気多いみたいだし、風花も優雅だし、ああホトトギスは変身すると両極端のような。


うん?ぶらじゅろーぬさんが言ってるのは、すべてアポロンに含まれるってことだよね。アポロンは単体で存在できるけど、デュオニュソスは単体ぢゃ存在できないってことなのかしら。


これ、娘が所属する吹奏楽部。生で聴くと涙が出ます。震えます。屋外だから音が弱く聴こえるけど。
 ○ 芭蕉元禄大垣イルミネーション 2013 (大垣北中学校 吹奏楽部) ディズニーメロディ
 https://www.youtube.com/watch?v=eL8N0Wvpl-s


小説は、続けて下さいね。(*^_^*)
今日は大垣に行ってきます。