■
bragelone: Symphonie des Proto-Sinnes
【Q:われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8505592.html
われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。
われなるミクロコスモスと世界なるマクロモスモスとは 同時に生成する。この仮説を問います。例証として コトバの生成について想像した仮説なるタトエをかかげます。
*
奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが
HA.....
と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずである。
HA.....SI。
というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。
HASI . / はし。
こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。
――愛(は)し。
つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で
’u = う。
'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。と作って これを添えれば
うる‐はし。(心愛し・麗しい)
とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。
ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。
つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。
文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまりやまと(山‐処)‐は うるはし。
〔ここで ジンが――プロト‐ジンが――生まれた。ジンを帯びる言葉の内部は 《はし。うるはし》である。外部が 見ている光景としての《やまと‐は》である〕。
人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。
と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて
やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。
と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
*
すなわち 問いのねらいとしては うたのヌシとその心と周りの山々なる環境とは 言葉の生成をめぐって 同時発生である。
人間の認識が先行するというもの(そういう一面のみ)ではなく また 環境が人間をつくるといった一面のみではない。基本は すべての存在や現象が 同時一体である。〔わづかにわが内なる心のうごきが その世界の静けさを突き破って 言葉を生成した〕。ものごとは それとして(そう言ってよければ)量子現象として励起されるし 存在は・つまり特に人間は 知性(ないし精神 つまりは 記憶・知解・意志の三つの行為能力の一体)をともなってそのユラギが励起されるようになる。
ユラギは もともと 世界すべてにわたって 同時一体である。どうなんでしょう?