caguirofie

哲学いろいろ

お早うございます。

bragelone: ベドイトゥングとジン

考えてみたら――エポケーと言っていたところ ほんとうに考えてみたらなのですが―― 
《明けの明星》や《宵の明星》は ジンとして捉えられ そのベドイトゥングは 《金星》である。

けれども 考えてみるに そもそも初めにこの星を《金星 あるいは ヱヌス》と名づけたとき
この名づけの言葉は 人の認識と思考とそして表現を表わすジンなる意味(意義)を持っていたのではないだろうか?

やがて社会にあって人びとのあいだで すでに確かな言語習慣として成り立ったときの意味が ベドイトゥングとなる。
初めにおいては ジンであった。


もしこうだとしたら いったいどういうことになるのか?
????

Tastenkasten 2014/11/26 22:28

こんばんは。

>エポケーと言っていたところ ほんとうに考えてみたらなのですが―― 

では、ボケツッコミではないということですね。

>この名づけの言葉は 人の認識と思考とそして表現を表わすジンなる意味(意義)を持っていたのではないだろうか?

まあ、それはそうですけれど、

ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを美と愛の女神アプロディーテーにたとえ、
そのローマ名ウェヌス(ヴィーナス)が明けの明星すなわち金星を指す名となった。
Wikipedia「金星」)

この内容はSinnですよね。しかし問題は、

>やがて社会にあって人びとのあいだで すでに確かな言語習慣として成り立ったときの意味が ベドイトゥングとなる。

の点ですね。ある一人の人が、
「明けの明星の輝きをウェヌスに例えて、そう名付けよう」
と思った段階では、個人の主観的思考行為ですよね。
フレーゲはSinnを、
「主観的思考行為ではなく、多くの者が共有できるような客観的内容を有するもの」と定義しますから、
「確かな言語習慣として成り立ったとき」に、情報伝達の手段として有効な「言葉」として認められ、
その瞬間に、多者が共有できるSinnとBedeutungを同時に獲得する、
といった方がよいように思いますがどうでしょう。
これよりさらにさかのぼると、言語起源論になります。
言語の起源は自然か人為か。
また、そもそも、人間がまだ思考と呼べるような行為ができないころに、
言葉ができ始めていた可能性もあります。
ワンワン説(Bow-wow theory、カッコー説(cuckoo theory)、
プープー説(Pooh-pooh theory)、ドンドン説(Ding-Dong theory)、
エイヤコーラ説(Yo-he-ho theory)などから、
「言語は突然完成された形で現れる」(チョムスキー
まであります。しかし、

多くの学者はこの話題を全体として真剣な研究の対象にそぐわないものとみなし続けている。
1866年に、パリ言語学協会はこの主題を禁止するまでに至った。
この禁止令は西洋世界の大部分を通じて影響力を保っている
Wikipedia「言語の起源」)

これをやると、逮捕されます。
ですから、おやすみなさい。

bragelone

 あぁ やっぱり。つまり ソシュールをやる必要があるのかなと思ったその主題が 出て来ました。
 ★ 言語起源論
 ☆ です。

 それについて ひとつの見方が提示されているわけです。
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 フレーゲはSinnを、
 「主観的思考行為ではなく、多くの者が共有できるような客観的内容を有するもの」と定義しますから、
 「確かな言語習慣として成り立ったとき」に、情報伝達の手段として有効な「言葉」として認められ、
 その瞬間に、多者が共有できるSinnとBedeutungを同時に獲得する、
 といった方がよいように思いますがどうでしょう。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ つまり起源において初めは 各自が(あるいは家族・親族などの集団が)試行錯誤で言葉を使うようになった。
 これが 社会生活の中でナラハシとして定着してくると ジンとしてもベドイトゥングとしても意味のある言葉として成り立った。

 これはおそらく《自然と人為》との両面作戦でそのように出来て来たのでしょう。


 ソシュールの――と言いますか 実際には丸山圭三郎のと言ったほうがよいと思いますが の――言語記号の恣意性なる仮説によれば まったくの人為説です。

 一挙に全部の語彙が 語どうしは互いの差異のみによって根拠を持つかのようにして 出来上がったと言います。

 動物は 一般に本能によって動くと見るかぎりで《身分け》として世界を生きている。身の感覚で 天敵を感知し逃げたり 食べてもよいものをやはり感知したりする。
 人間は この自然の状態から 一気に《非自然》としての《文化》なる状態に駆け上がったのだと。
 それが 一挙なる語彙の獲得であると。
 言いかえると これは《身分け》ならぬ・世界の《言(こと)分け》なのだと。すべては 文化として――言葉で世界を認識する文形成の段階へと――世界が開けたのだ。
 だから 個々の言葉は 単なるシルシシーニュ)である。
 シーニュは 声の要素(シニフィアン)と意味の要素(シニフィエ)との両面に分かれる。
 それだけのことだ。

 シーニュとしての語が ほかの語とのあいだに持つ差異 これが互いに・そして語彙の全体として それぞれの語に意味をあたえている。だけである。
 思考および表現は 語を手段としておこなうのみであると。



 ここはどうも 煮え切らない中間派に落ち着きそうではあります。


 でもこれまでにまだ 逮捕されたというニュースは聞いていないようにも思います。・・・