愛の理論
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
《愛》は――ましてや 《幸福》は―― 哲学としては そこにある共通の要素や要因を分析しておくのみであると まづは考えられます。
幸福なら おそらく 身もこころもすこやかであるといった要素くらいでしょう。
この状態を互いに自由にとうとび 自由にまもりあう。これくらいでしょう 愛なる意志行為は。
むろん 普遍妥当性を問い求める哲学とて 究めていったその先では おのおのの主観をこそ問題とし その価値判断についてこそその内容の意味するところを明らかにして――つまりは 批判を互いにおこない 言わばほとんどつねに けんかしつつ――すすみます。
そういうものだと考えますが 愛やしあわせについては 例え話のような理論になるのではないでしょうか。あるいは ウタにして捉えるといったような。
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たとえば
▼ (旧約・詩編 122編) 〜〜〜〜〜〜〜〜
6節 エルサレムにやすらかな日々を問い求めよう。
(シェアルー シャローム ィエルシャライム)
おまえを愛する人びとにやわらぎのあるよう
(イシュラーウー オーハバイク)
7節 おまえの石垣の内にやすらぎのあるよう
おまえの八重垣の内にみのりのあるよう
▲ (古事記歌謡・1) 〜〜〜〜〜
やくも立つ
いづも八重垣
つま籠みに
やへがきつくる
そのやへがきを
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愛は 中立でいられないウゴキであるようです。
人と人とがいれば そこに二格関係または二角関係が出来ます。
この二角のあいだには まづ互いの対角線が発生します。
やがて その線には 正負の向きがかたちづくられます。
この向きが ヱクトルとしての愛であろうと見られます。
好き嫌い あるいは いつくしみ・あわれみ・そして にくしみといった正負の向きが 愛のかたちです。(正負の両方が 愛です。その自由で おおむねおだやかな持続が 愛です。プッツンも愛だと言えましょうか)。
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八雲立つ空のもとでやへがきをつくるのは 愛の原点であるかと考えます。
たえずどこまでも自由に相手をとうとびつつけんかをし合える仲としての二角関係
およびそれを中核とした三角関係。そこからは 社会へと・世界へと広がります。
原点としてのニ角関係は ツイ(対・ペア)の関係でしょう。
このツイ関係を中軸として 上の世代にも下の世代にも 二角関係の正負の愛は 伸びます。
言いかえると 家族が かまどであり 出発点である。
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ところが この家族としての八重垣のさらに上を行こうとした《愛》なるウゴキもあるようなのです。
それが 九重です。
これは 宮中とか内裏といった意味がありますが 言ってみれば 社会の神だなとしてのお二階へとアマアガリする愛です。
空に立つ八雲をもしのいで行くところの愛です。
かつて経済が世界の先頭を切って走っていたときに日本人は ジュー( Jew )の上のイレヴンだとあだ名されたことがあります。アマガケリ・アマアガリが得意な一面があります。
あるいは 世界へのイリ(入り)――世界・内・存在――をするのではなく 世界を・人びとをヨセ(寄せ)することが 得意である一面があります。たばねる愛です。
これが ココノへ(九重)の愛です。
そこは おまえたちの土地ではなく おれたちが 昔むかしから持っていた土地だ わるいことは言わないから 返しなさい 出て行け という上から目線をおこなえる愛。これが ココノへなる愛。
その人たちの考える自由であり 愛であるようなのです。
あるいは 駄々っ子のように・ただのわがまま嬢ちゃんのごとく・あるいは自分は死神となってこそ生きるという死をも愛だと思い込んでしまった男や女であるかのごとく 下からココノへの愛をうったえる国もあります。空へ舞いあがったかのような気分になっていつつ 実際は 地べたに這いつくばって愛をうったえる。それでもココノへだと言うからには その姿勢は 上から目線であるようなのです。
もし《九重》なるあらたな舞台に上がって アマテラス語なる人格と科学との極致を行く模範なる愛だというのならば それは 市民スサノヲたちの八重垣なる愛の核心を成す内容であるでしょう。それを見せたまえ。