さとり
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
さとりとは 動態である。
にわか仕立ての立論です。
批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。
1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。
2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛−ダだか何だったかの請け売りです)。
3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。
4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?
(4−1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。
5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。
6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。
(これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。
(6−1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい
さとりとは
( a )★ 「さとり」とは【今まで、見えていなかった(感じていなかった)事が、見えるようになること】と言えます。
☆ おそらくそれは 個々の経験事象をめぐってその外見では知り得なかったことがらを――つまりはたとえばやはり因果関係についてのくわしいことがらを――知り得たという事例を言っていますね。
質問の趣旨説明欄に書き込んだ内容は 微妙に違っています。とまづお伝えします。
すなわち
☆☆ (趣旨説明欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ ひとつに ご回答の( a )は この(4)の事項を――それは ひとつの具体的な事柄に過ぎないので―― 一般化して(抽象化して)まとめた命題であるかとまづ考えます。
つまり この一つ目は むしろほとんど同じ内容であるのではないかというお応えです。
もうひとつは ただし――そして 質問者としてのこれらの趣旨説明だけでは いま振り返ってみて舌足らずだったと省みていますが それとしても―― このような《すべての世界条件を知り得るようになるという気づきや再認識》は じつは そのような具体的なまた経験事象としてのことがらだけを言うためのものではなかったのです。そのことが 第二点です。
どういうことか?
問題は 《真理》です。変わらざる真実(つまり 真実とは 主観真実のことです)であるからには 普遍性としての絶対なるコトだと捉えられます。
つまりは 早い話が この真理とわれとの関係から来て ヒラメキとしてのように得られる認識である。というわけです。
あたらしい気づきや再認識のその事柄は 経験事象ですが それが得られる仕組みというのは すでに経験世界を科学的に知ろうとして得られるその成果とは 基本的に違うということが 問題です。つまり ヒラメキのごとくにです。
ヒラメキは それではそろそろヒラメキを得たい 持ってみようと言って得るものではない。こういう意味です。
したがって このように《気づきや再認識》が 経験事象だけのことではないという意味で わが(4)なる説明は ご回答の( a )なる命題とは おそらく根本的に違っている。微妙なところから始まって 根本的に違いを持つ。――まだ 説明が足りないかとも思いますが まづは こういう反応を差し挟みますが いかがでしょう。
つまりは 回答者からも例証が出されています。これを さらに検証してみましょう。
★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
例えば、以下のような事、が自分の経験から検証した結果、正しい認識だ!と理解できたとき、それは1つの「さとり」であると思います。
ーーーーーー(以下のような事)
日本という国は、真似る事が上手な集団であるため、欧米を真似て民主主義のフリをしているが、その実態は「独裁者を生まないタイプのファシズム国家」である。
ーーーーーー
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ この例証としての説明にかんして いくつかまだ飲み込めないところを書き出してみます。
(あ) 《正しい認識》というときの《ただしい》とは 何と言うのか? これが まだ自明ではありません。
(い) つまり おのれの主観において マチガイが無いと感じたし 理性による推論においてもそう捉えたといったことでよろしいのでしょうか?
(う) けれども それでしたら その《ただしさ》は 普遍性が保証されているとは言えませんね。どうしましょう?
(え) 《民主主義のフリをしている》というとき その《フリぶり または 真似ぶり》は いったいどの程度であるのか。これを規定してみる必要があるのではないか。そうでないと まったく《欧米》のそれにそっくりと見紛うほどであるのか それともそれとは似ても似つかない程度でしかないのか。これが 分かりません。
(お) 《真似ることが上手な集団である》ということは 一見しただけでは 違いが分からないほど似ているということなのでしょうか?
(か) とは言うものの むしろその前に 《欧米の民主主義》というのは 誰もが・どの国もがすばらしいものとして仰ぐような歴史的な社会現実だと言えるでしょうか? つまり先ほど《真似るの上手だということで ひょっとすると そっくりである》というほどなのかも知れないと思ったわけは 欧米の社会がすでに手本としてもマチガイがないという前提で この例証の議論をおこなっているように思えるからです。
(き) そこらへんは けっきょく簡単な短い議論では 無理ではないでしょうか。つまり この例証は あまりにも簡略すぎる議論におわっている。ということではありますまいか。
(く) それでもただし 《ファシズム》については 補論が添えられています。ヰキぺのファシズムなる事項からであるようです。
(け) ( b )★ 「ファシズム」は「個人よりも集団を優先する」という意味で、「出る杭は打たれる」「沈黙は金」という日本人の伝統にあてはまる。
☆ そうですね。この場合も 《集団》についての規定がまだ自明ではないですね。
(こ) たとえば
▲ (ヰキぺ:ファシズム) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
( c ) 彼らは、文化は全国民的な社会とその国家によって創造され、文化的観念が個人にアイデンティティを与えると主張し、したがって個人主義を拒絶する。
( d ) 彼らは国家を1つの統合された集合的な共同体とみて、多元主義を社会の機能不全の様子とみなし、国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ といった説明を聞くとき ( c )における《社会全体に普及している文化ないし文化的観念が 個人にアイデンティティを与えている。つまりは 言わばおのれの存在理由をそこに見い出している》といったときの《大小いろんな形態としてのまた上下いくつかの階層における集団》を言っているのでしょうね。
(さ) ということは おそらく その集団は いわゆる《くうき(空気)》の支配する社会情況および個人の心的現象を指して言っているものと考えます。――けれども そのようなクウキによって運営される集団というのは 単純に《出る杭は打たれる》という仕組みだけで成り立っているものではないはずです。
(し) いまちょうど
【Q:日本教について】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8392624.html
という質問を挙げていますが それもこのクウキ社会のことを扱っています。それはそれとしても この国家全体としては 日本教がクウキとしてかもし出されている社会にあっては そこでは日本教のシントウ派やブッダ派やキリスト派やまたマルクス派が それぞれ宗派として息をし棲息しているのであり――ここからが 問題ですが―― もし出る杭があれば歓迎するという場合もあるわけです。出る杭を泳がせた恰好でそのまま出るようにさせたり だから そのときは必ずしも打たないで放っておいたりすることも あるわけです。
(す) おそらく
★ 「独裁者を生まない〔タイプのファシズム国家〕」
☆ というのは そういう社会のからくりのことを言っているのかと思いますが それにしても では どういう事態なのかという問いは とうぜん持たれるからには 説明をしなければならないことでしょう。(こちらが してしまいましたが)。
(せ) けれども それでは わたしたちは どうするのか? これにもこたえて初めて さとりであると言えるのではないか。どうでしょう? つまり
★ ・・・・・正しい認識だ!と理解できたとき、それは1つの「さとり」であると思います。
☆ このごとく《ふたつのさとり みっつのさとり・・・》をも説明されるなら さいわいです。
(そ) 上の(し)の繰り返しになりますが もし必要だと思ったときには 《沈黙は金》ではなく 《銀》にも《銅》にも自由自在にさせられ得ます。そういう集団志向なのだと考えられますまいか。
(た) ということの意味は
★ しかし日本は族長の合議制的な手法の政治であったため、独裁者を必要とはしないタイプの【(血液の)A型ファシズム国家】として区別すべきモノであろう。
☆ といった規定が あまりにも素っ気ないものに見えるのですが いかがでしょうと言おうとしています。
(ち) クウキ社会は いわゆる集団主義では必ずしもなく 集団のために考え動く個人を立てることはあるのだと考えられます。たしかに集団志向なのです。極端な例として言えば 個人主義が その集団志向にとって有益だと見るなら それをも採用します。《これこれのことは 自己責任でなさってください》といった不特定の人びとへのうったえも出され得ます。その場合は 《合議》とは 別なのだと言っているかに見えます。
(つ) 《個人よりも集団を優先する》と言いますが 《集団志向においては 個人を優先したほうがよいという場合には そうす